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ミッドサマーの感想 (ネタバレ含む)

一言で書くならば、「花は散るためにある」 そういう映画だと思った。

以下、感想と分析を書く。

これはとりあえずホラーではないな…。 いい映画だとは思うけど、良さを他人に説明するのは難しい。

しつこく同じことを言ってしまうのだけど、私はシャイニングが好き。あれはホラー映画ではなくてどのシーンを切り取っても写真作品として成り立つような映像を楽しむ芸術作品だと思っている。

ミッドサマーも同じで、ストーリーそのものというよりもあの夢のような世界、ゲームのような世界、現実ではない世界の旅をぼんやりと楽しむのがもっとも作品の良さを享受できるのではないか、と私は思った。ただ、どこに注目するかは人それぞれ自由にすべきことなのでこの考えを強要することは出来ない。が、あたま空っぽにしてぼんやりと非現実を楽しむのが一番美味しい食べ方なのではないかと思った。

それと同時に、「花は散るためにある」という言葉が見終わってから頭の中に浮かんだ。本作で花は作品のストーリーに関わってくるわけではないが、本作を印象づける上で花の存在は非常に重要だ。数々の花が無ければこの作品は名作にはなっていなかっただろうと思う。しかしながら花はストーリーに直接関わってこない。不思議な存在である。それを抽象的に表すのならば、私は「花は散るためにある」という言葉で表現するかな…。

以降、見ながら取ったメモを物語の要所要所で思ったことを書いていく。

まずタイトル。Midsummor。Mid-summerだと思ったらスウェーデン語だった。

冒頭のシーン。ダニー面倒くさい。ダニーが面倒くさくて疎ましいように描かれているので面倒くさいと感じるのは当たり前かも知れないが。ダニーがしんどい状況にあって慰めない彼氏が酷いとみるか、面倒くさい彼女あるあると見るか、いくぶんか性差はあるかもしれない。 ダニーは自身が辛い状態にありながらも可能な限り常識的に振る舞おうとしているが、しかしそのどれもが裏目に出る。ダニーは悪くなくて正しい対応をしているが、しかしクリスチャン側からみればうざったいことこの上ない。このリアリティはとてもいいと思う。

あの男友達4人の関係、あれもリアリティがあっていい。これも性差があるかもしれないが、ほとんどの男性はああいう友達関係を心地よいと思うのではないだろうか。ずっと別れようと思い悩む友達に踏ん切りをつけさせるために別れさせようとする。ダニー抜きでの旅行を企画立案する。

ホルガ村に至るまでのシーンで一番良かったのが旅行にダニーが付いてくると分かったときのマークの反応。ダニーが来ると知ったあとでマークが「ちょっとこれを見てくれ」とラップトップを閉じてクリスチャンを別室に連れて行くその後でどんな会話をしているか想像すると思わず笑ってしまう。男同士の旅行に彼女が付いてくることは非常にうざったいものである。恐らくは逆もそうだろう。女同士で旅行に行くという予定だったのに急に一人が「彼氏を連れてくる」となったらちょっとそれは違うよね、ってなるんじゃないだろうか。

冒頭部分でもう一つ特徴的だったのは、泣きわめくダニーのもとに向かうクリスチャンが家の外でダニーが泣き叫ぶ声を聞くシーン。白夜という設定も相まって作品全体で明るいシーンが続く本作において暗い路地でダニーの泣き叫ぶ声が聞こえるあのシーンは全体を通しても特徴的で、これから始まる凄惨な祭りを視聴者に十分に予感させる効果になっている。

ホルガ村にたどり着くまでの道筋もつまらなそうにするダニーがやがて寝る描写などよかった。ホルガ村に辿り着く砂利道は俯瞰の映像からカメラが上下反転する。これも後々起こる異様な光景を想像させていて良い。

村に入ってからは人が死ぬシーンが多々登場するが、そのどれもが思ったほどにはグロテスクではなく、怖くもなかった。少なくとも、ホラー映画というジャンルではないと感じた。

途中、陰毛と恐らく経血が料理に含まれているシーンが登場する。個人的には一番このシーンが気持ち悪かった。人が殺されるよりも気持ち悪いと感じるのは変かもしれないが。

クリスチャンの行動のいくつかを責めたくなる人は多いと思うが、個人的に一番無いなと思うのは、ホルガ村の儀式を屁理屈つけてジョシュの研究を横取りしようと企図するシーン。ジョシュは「俺が教えるまで電子図書館の使い方すらも分からなかっただろ、それで院生か」と責める。それに対してクリスチャンは学位は同じだと苦しい言い訳をする。研究の熱もなく何となくアカデミアの雰囲気だけ摂取して生きている人間は私は好きではない。

そしてクライマックスシーンのお花ダンス。クライマックスと言っていいかどうか分からないけど、私はクライマックスシーンだと思った。

お花綺麗。お洋服きれい。美しい。薬物を摂取して踊り狂う女たち。薬物を摂取しているシーンはすべて背景がぐにゃぐにゃと歪んでいる。最後にはスウェーデン語を理解してしまう。

ダンスが終わって女王、メイクイーンが決まった時は感動してちょっと泣いてしまった。あのダンスに混じっていいか?と思った。私も踊りたい。踊り狂いたい。全裸中年男性だけどお花付けて踊っていいか?

メイクイーンとして君臨するダニーとは対象的にクリスチャンはたった一人で疎外されるシーンが映される。ダニーとクリスチャンはこの時に決定的に分かたれたということなのだと思う。狂気のコミュニティに取り込まれてしまったダニーと、現実に残されたクリスチャン。白地が花で彩られた世界に経った一人グレーで残されるダニー。

そして現実に残されたダニーは打ち捨てられる側になってしまう。子種だけ採取されて最後どのような運命を辿るのかは、ジョシュやマーク、サイモン、コニーがどうなったかを考えればすぐに分かるだろう。

私は映像の美しさに目が行くのでクライマックスシーンはお花ダンス(これなんか正しい名前があったと思うけど…)だと考えているが、ストーリーを考えたらクライマックスはこの後なのだろう、恐らく。

クリスチャンは薬を盛られて朦朧となっているところで果たしてたつんか?と男としては疑問に思っていたのだけど、何やら怪しい煙を嗅がされてきっちりと役割を果たすことになる。この奇妙な風習を研究するよりもあの煙を製薬会社と研究したほうが社会的な意義があるのでは…とちょっと思ってしまった。

この「役割を果たす」シーンも一つの狂気の最高潮であるのかもしれない。彼らの狂気を狂気たらしめる一つの仕草は相手の感情に全力で共感すること。共感すると言うべきか、真似ると言うべきか。それで増幅された狂気の感情はどんどん大きくなっていく。その狂気の感情は部屋を覗いたダニーの悲しみによって最高潮へと達する。

その後、多少正気を取り戻したクリスチャンが全裸で逃げ回る。ここは個人的に謎の盛り上がりを感じた。全裸中年男性やんけ!厳密に言えば中年ではないだろうけど。

続いてクリスチャンが家畜小屋でサイモンを見つけるシーン。サイモンは小屋の中で吊るされて肺と思われる臓器を背中側から露出させられている。なぜそれが肺であると分かるかというと、呼吸に合わせて膨らんだり縮んだりしているからである。つまり、サイモンはあの状態でまだ生きているわけで、これもまた一つの狂気を演出するシーンとなっている。

ただ、現実的には肺とはただの袋であって、胸郭や横隔膜の動きによって肺に空気を取り入れたり吐き出したりしているので、あの状態で呼吸を行うことは不可能である。だから肺がしぼんだままになっているのが正しい描写なのだけど、ここで狂気を演出するためにはあの状態でまだ生きているというグロテスクさを分からせてあげないといけない、というのもごもっともなところだ。 私は理系だからなのか、こういう細かい描写が気になってしまう。作品の質には影響を与えない枝葉末節ではあると思う。

最終的にクリスチャンはダニーに命を捧げる9人の一人に選ばれて焼かれることになる。それでダニーが笑みを浮かべておしまい。

事前情報でよく聞いていたのは「男女で感想が別れる」という話だった。これは考えると難しいと思う。

恐らく、女性視点では彼氏として冷たい態度取ってきたり誕生日を忘れたりするクリスチャンが、薬物を盛られたとは言え他の女性と交わった後で生きながらにして焼かれてスカッとする、みたいな話なんだとは思う。

一方で男性視点では、冒頭からうざったかったダニーの選択によって焼かれて死んだのが可哀想だし、子種の件だって薬を盛られてたし、正気の時はそれを拒否してたんだし、生きながらにして焼かれるのはあまりにもかわいそうだという話なんだろう。

私がダニーが可哀想だと思う箇所があるとするならば、やはりお花ダンスのシーンだったとは思う。あそこで二人の世界は決定的に分かたれてしまった。狂気の世界へ旅立っていったダニーに対してクリスチャンは置いてけぼりになってしまった。その点では可哀想だなとは思う。

私はあまり男女のいざこざみたいなものに特別何かを思うことが無い。世間で起きている有名人の浮気のニュースも、まあ、そういう人もおるやろな、位にしか思わない。だから本作に関しても、ダニーとクリスチャンの関係も「まあこういう人らってよく居るよな」という以上の感想が特にない。あるあるネタとしてダニーが旅行に付いてくるとなってみんながギクシャクするというあたりが笑える、という程度だ。

本作においてそういうストーリーは薬味のようなものなんじゃないかな、とは思う。無くても食えるが、あったほうが楽しいという。ただ、何も考えずにぼーっと見るのがこの映画を美味しく食べれる一番の方法ではないかと感じた。もちろん、好みで薬味を入れることは全く否定しない。そのほうが良ければそうすれば良いと思う。

ただ、翻ってこの映画に人間関係の醜さが無かったらどうなっていたかを考えると、やはり寂しさは存在する。この映画の狂気は冒頭のダニーの慟哭から既に始まっているのだと思うし、それを引き立てるためのクリスチャンの各種ムーヴもまるきり無かったら作品の解釈の幅が著しく削がれてしまうとは思う。

どのような解釈や楽しみ方をするのであれ、この映画の見どころの一つは白夜と白地に映える花々の美しさであって、それと逆説的になる凄惨な事件や見にくい人間関係は対であることを意識せずにはいられない。

だから私は、「花は散るために存在する」という、端的に表現するならばそんな感想に至った。花が美しくあるためには、その存在は限定的でなければならない。それは単純に「ギャップがエモい」という話以上に、そもそも本質的な美しさがそうなのではないか、ということを想像させる。

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