言葉
気がつくとクソみたいな言葉しか出てこないのが直近の感想だ。 正直な気持ちを書こうと思う。
よく休めと言われるけどなぜみんな休んでいられるのか分からない。そんなに暇なのだろうか。少なくとも私はやることが多いし、ほとんどの人はやることに追われていると思う。育児世帯だからという事情もあるかもしれない。仕事で中堅以上のロールを求められるからかもしれない。仕事をしていると私の発言を待っているんだろうなと思うことがあり(勘違いかもしれない)、その時は私が決断を下すことを皆が待っているのだろうなと考えることもある(勘違いかもしれない)。すると責任を取らねばならず、であるからこそ考えることも増える。
私は欲張りである。結婚、育児、仕事、絵、そしてバイクや車や写真や旅行やゲームといった種々の趣味。全部諦められない。全てを完璧に済ませないと腹が立つ。何に腹が立つのかが分からない。自分に腹が立つというところもある。いつもまだ出来るはずと思う。やってもやってもやりきった感触が湧かない。まだ足りない。いつもそう思う。
他の人に腹が立つということもある。私が死ぬ気で仕事(これは雇用関係にある仕事のみを指しているわけではない)をしているのだから、私と同じくらい働けとは言わないけれども少なくとも一般常識に照らし合わせて真面目と言われる程度には手を動かしてほしいと思う。そうでなかったとしても、やるべき事はちゃんとやっててほしい。と言うと休暇や余暇を返上して働けということ!?とか言われそうだがもしそうだとしたらそれも腹が立つ。そんなことは言ってない。一般常識に照らし合わせてやるべき事をやるのがmustで真面目と言われるのがbetterである。その定義の議論は差し置いても私はbetterを目指す人と行動したいと思う。
手を動かしているやつが一番偉いと思うので、自称芸術家、アーティスト気取りになっている奴に腹が立つ。ちょっと前によくあったが、フリーランスのプログラマになればすごいみたいな風潮も腹が立っていた。彼らは何をするにも表面的で、言い訳ばかりで他責的だ。この辺りの思考をまとめてみたい。
私が好きな人
- 率先してドブさらいや面倒くさいことをやる人
- みんなが遠慮してどうぞどうぞして残っている最後の一個のから揚げを食べる人
- 自分でやると言ったことをきっちりやる人
- 自信に満ちて行動に表れている人
- 能力に比して高い目標を持っている人
- 自分の思いや情熱を言葉あるいは行動として人に伝えることができる人
- 内省的で改善の意思がある人
- 他人へのリスペクトがある人
- 事実と数値と理屈を尊重できる人
- 現場合わせが出来る柔軟性を持っている人
- 自分の気持ちを正直に伝えることができる人
- 他人の決断を尊重し口を挟まない人
- プライドがあり行動が伴っている人
- 完璧主義者で細部までとことんこだわる人
- しつこい人
私が嫌いな人
- 誰かがやってくれるだろうと思って放置する人
- から揚げを食いまくったくせに最後の一個をどうぞどうぞと遠慮する人
- 自分でやると言ったくせに出来ない理由や障壁ばかり並べる人
- 卑屈で嫉妬ばかりいう人
- 自分の機嫌を取るために他人に負荷を押し付ける人
- 他罰的で言い訳がましい人
- 店員にタメ語、年下と分かると急にタメ語、敬語を使われると自分はタメ語になる人
- 科学を軽視し、自分の所感と違う事実に対して「例外もある」とか根拠がなく自分にとって都合の良いバイアスをかける人
- 理屈を重視し現場で違うことが起きたときに杓子定規にしか対応できない人
- スポーツ観戦のごとく他人のプライベートに口出ししてくる人
- プライドがない人
- 行動しないくせにプライドだけ高くてすぐ卑屈になる人
- 完璧主義者で細部が自分の好みと違うとすぐにさじを投げる人
- 上手くいかないと分かるとすぐに投げ出す人
- 自己犠牲を美化する人
- wanna be. 何者かになりたいとか言っている馬鹿
私が上記全てを網羅した人間になっているとは思わないし、(ある人の主観においての)理想的な人間などいないというのも承知している。だから私はこの中で該当しない項目を有して居る人とは交流しない、一緒に仕事しないなどいう子供みたいなことはもちろん言わない。
絵を描くのが好きだし話を考えるのも好きだ。頭の中にある世界をはやく自由にしてやりたいと思う。ただ、それを実施することが結果として身体の疲労に繋がり、身体の疲労が精神の疲労に繋がるという状況ではある。だから休めと言われるけどあまり休む気がない。自分の健康は一番優先度は低いと思っているし、自分は惨めに死ぬべきだし、しかし死ぬ時も前向きに斃れてみせましょうという気持ちはある。
それもこれも理由は分かっている。私をこのように形成した、刺さって抜けないくさびのようなものがある。
私が16歳のときの7月5日に友だちが死んだ。あれからずいぶん経っても未だに忘れることはない。友だちが消えたときの光景、沈んでいく太陽、薄暗くなる川辺、パトカーと救急車、一つ一つが私の中で石碑のように刻み込まれている。あいつは16歳で居なくなった。永久にこの世界と干渉しなくなってしまった。19歳のときにも友だちが死に、32歳のときには大変お世話になった先輩が亡くなった。みんないい人だった。あんないい人が死んで良いわけがないと今でも思う。同じ時期に妻が双子を妊娠し、流産してしまった。そのときも私は辛かった。この世界を見ることすらなく消えていった私の子供達もいる。
それらが私が頑張ることに繋がる?その理屈はおかしいと思う。しかしそうなっている。彼らが死んだという事実を反すうする度、私を突き動かしている。それが彼らの弔いになるとは思っていない。いや、そう考えていた時期もあったかもしれない。しかし今は違う。私の価値観や体は既にそうなっている。もはや原体験も理由もないのだ。
しんどいと感じる度、どこか他人事のような感覚がある。「それでも有理まことという人間ならば、乗り越えてしまうんだろうな」という第三者目線だ。そして、それは今のところ真実だ。乗り越えられない壁はなかったし、どんなに辛くても明けない夜はなかった。
もう無理だ、動けない。何度もそう思う。横になりたい。寝たい。一旦休みたい。けれども、そのたびに本当にもう一歩も動けないのか?ともう一人の自分が確認を始める。人生は自分というロボットを操るゲームだ。手を動かしてみろ。動くじゃないか。足を動かしてみろ。歩けるじゃないか。だったらPCに向かえ。キーボードを叩け。ペンを握れ。ほら、できるじゃないか。あと一つタスクを消化したら休めば良い。まだできる、まだやれる。
這いつくばってでも頂上まで登る。指一本でも動く間は諦めきれない。人間が出来る事ならば私にも出来るはずだ。私の頭の中にあるアイディアを形に出したい、頭の中から取りだしたい。ただそれだけ。その過程で死んでしまったとしても、私は前向きに斃れ、周りの人や後世の人が「この人はあそこまで行きたかったんだろう」と思ってくれればそれでよい。