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おすすめの10冊(2025)

この記事はオススメの十冊 Advent Calendar 2025の8日目です。

私は「絵と文」を創作活動でやっており、「SFと郷愁」がテーマです。具体的には小説と漫画をかいています。

おすすめの本10冊を書いていきます。今年は忙しすぎて本をあまり読めなかったので今年読んだ本は少なめです。買った本は山ほどあるんですが…。小説、漫画、その他雑多に色々な本を紹介します。

「みんなあんまり読まないような本かもしれないけど、読んだらすごい面白いですよ」みたいな感覚で選んだ10冊です。

正直に言うと、まあ私がここで紹介したところでほとんどの本は誰も読まないだろうな。すごい面白くて勉強にもなるのに。みたいなひねくれた気持ちもあります。私もあんまり人からおすすめされて本を読まないのでそのあたりはお互い様と言うことで…。ここはひとつ…。

人によってはネタバレと感じることも書いているかもしれないので、全然ネタバレを許せないという人は避けといてください。

ハローサマー、グッドバイ

冒頭、作者の言で

これは恋愛小説であり、戦争小説であり、SF小説であり、さらにもっとほかの多くのものでもある

と書かれていますが、これが本書のすばらしい要約となっています。この本は全部なんです。全部が入っています。

登場人物は人間ではないですが、人間とよく似ていて、人間と同じように悩み、苦しみ、それでも生きようと試みます。戦争の音が忍び寄る漁村で夏がやってきて、少年が少女と出会い、両親に反抗し、そして世界の真理に触れます。

ラストシーンの意外性(どんでん返し)がすごいとよく語られる本ですが、私はそれよりも作品全体の雰囲気がとても好きです。なによりも「すべてを描いている」という点がとても良いと感じます。私自身があれもこれも、色々な思いを作品に押し込めるのが好きなので、感性が似通っているんじゃないかなと思います。

人生というのは、別に恋愛だけだったり、仕事だけだったり、争いだけだったりするわけではないですよね。でも小説となるとある程度描くテーマが絞られてきてそれが作品の特徴を形づけてしまいます。でも現実って決してそうじゃない。いろんな事が起きる。私が小説に求めてることの一つはそういうことなんだろうなと思います。

きれぎれ

町田康の芥川賞受賞作です。私が小説を書くきっかけになったのが町田康の作品でした。町田康作品を知ってもらうために第一に何がおすすめできるか、と考えたら「きれぎれ」になるかな…と思いこれを選びました。

主人公は親が太くてすねをかじっていて芸術家を志しています。しかしいまだ結果は出ず、一方で結果を出している知人を妬んでいる……という状況で物語が始まります。冒頭からぶっとんだ精神世界が描写されたり、主人公がとにかくダメでどうしようもない人間で親の事務所に手伝いに来る女の子に手を出したりなどします。

町田康作品に出てくる主人公は概ねダメ人間です。意思が弱く楽をしようとする。すぐに女の子に手を出す。やってはいけないと言われたことをやる。楽をして儲けようとする。努力せず実績を得ようとする。水のように楽な方楽な方へと流れていきます。しかし、それは実に人間的な描写であって、読んでいると主人公の気持ちがよくわかりますし共感も出来ます。

町田康作品の面白さというのは小説の概念を打ち壊すような軽快な語り口と独特な精神世界の描写、そしてダメな人間のリアルな描写だと感じます。時に声を上げて笑ってしまうような文章を差し込まれつつ、主人公の気持ちと一体となって読み進めていけるような感覚があります。

その魅力は読者自身の弱さを肯定的に認めつつもそれに抗おうとする力であったり、時折見せる鋭い観察眼であったり、とにかく読む人を飽きさせません。

ちなみに町田康でよくおすすめとして挙げられるのは『告白』だと思いますが、これも面白いです。『きれぎれ』『告白』あたりで面白さを感じるようでしたら、最後に『ホサナ』を読んでほしいです。『ホサナ』はなかなか難解な作品でもあるのですが、すごいです。たぶん、1つ目に読んでしまうと途中で読むのを止めてしまう人が多いのでは、と思いますが…。

西部戦線異状なし

第一次世界大戦を戦った兵士を描いた小説です。最も有名な戦争小説の一つではないかと思います。見たことはなくともタイトルを知っている人は多いのではないでしょうか。

私は戦争小説が好きで、伝記や手記のようなノンフィクションを特によく読みます。『西部戦線異状なし』を書いたレマルクも第一次世界大戦に従軍したドイツの兵士でしたが経験を元にこの小説を書き上げました。

第二次世界大戦が始まってからはアドルフ・ヒトラーが厭戦気分を醸成させるとして『西部戦線異状なし』を焚書指定したうえで、レマルクもユダヤ人の末裔であるとのプロパガンダが広がり亡命しています。

私が戦争を取り扱うノンフィクション小説を見ていて気になるのは前線で戦った兵士はいずれもひどい目に遭い、戦友を亡くしていながらも「戦争は我々の青春でもあった」というような発言が度々あることです。これはある種、その状況を肯定的に見ているような発言のように感じます。

言うまでもなく戦争はクソで何があっても起こしてはならない(少なくともその努力はしなければならない)というのはすべての市民が願うことだとは思います。それでもなお最もひどい目にあった彼らが戦争とは青春であった、と表現するのはそれは人間としての力強さなんじゃないかと思っています。生きて帰ることはないと覚悟を決めた最悪の環境であったとしても、人間はそこに生きる意味を見つけようとする。現代日本に住む私たちはその気持ちを想像するしかないのですが、その我々にとって未知の環境を生きた人たちを知ることは、私たちの人生そのものにとっても意義深いことなんじゃないかと、そんなことを漠然と思ったりもします。

『西部戦線異状なし』も戦争の悲惨さとともに、どこか青春と呼べるような側面があるような気がします。若者が戦場に集い共同生活を送る様はどこか学校生活に似たようなものを感じます。そしていくつかのシーンは修辞的で美しさすらも感じさせます。どうしても戦争を取り扱った作品という説明が先行してしまいますが、それをすべて取り除いたとしてもすばらしい文学作品であることは間違いないと思っています。

戦争広告代理店

こちらは現代に関する戦争の話。1992年に発生したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争でアメリカの「PR会社」が果たした仕事を説明したノンフィクションです。

PR会社と聞くと私は日本の博報堂や電通のような広告代理店を想像してしまうのですが、アメリカのPR会社というのはもっとやっていることが幅広く、世論の誘導も含むような広報活動の戦略を練って実行するような会社なのだそうです。当時対立していたボスニアとセルビアですが、ボスニアの外務大臣がアメリカのPR会社のジム・ハーフに世論を誘導し、ボスニアにとって有利な国際世論を構築してほしいと依頼するところからこの話ははじまります。

ジム・ハーフはあの手この手でボスニアが被害者でセルビアが悪者という論調になるよう巧妙に世論を誘導して「国際社会の敵はセルビアである」「いま介入しないことは虐殺を放置することになる」という国際世論の流れを作りました。結果、最終的にはこの紛争にはNATOが介入することになります。

このように書くともしかしたらジム・ハーフは金を貰って片方に肩入れした片方を悪者に仕立て上げた人物だ…というように聞こえるかも知れませんが、しかし彼は虚偽の内容に基づいてPR戦略を立てたわけではなく、すべて事実に基づいた論拠に説得力を持たせて国際社会でプレゼンをし続けた(実際にプレゼンしたのはボスニアの外務大臣)のです。

そういうことを例えば中国やロシアがやったのだとすれば私は特に驚かないのですが(そして中国やロシアは事実関係が曖昧でも驚かないですが)、90年代のアメリカでそういうことが行われていたという点にすごく驚きました。世論というのは我々が自らの頭で考えて意見を述べているつもりであっても、既に入力される情報にバイアスがあるとしたらいとも簡単に誘導されてしまうのだな、と。

Qを追う 陰謀論集団の正体

Qとはアメリカの陰謀論集団、Qアノンのことです。2021年にバッファローのような角を付けた半裸の男性が米議会を襲撃した映像を覚えている人は多いと思いますが、あのQアノンとは一体なんだったのか、何が起源でどのように広まっていったのかを追った朝日新聞の連載記事を書籍化した本です。

Qアノンの主張は荒唐無稽で「世の中には小児性愛者の集団がいて、ハリウッドスターや政治家がメンバーとして名を連ねている」「悪魔崇拝やカニバリズムが行われている」「彼らはディープステートと呼ばれ、世界を裏で牛耳っている」「トランプ大統領はディープステートと戦う光の戦士だ」というような内容です。当時、アメリカ市民の5%がこの主張に「完全に同意する」と答え、11%が「ほぼ同意する」と答えています。

そのQアノンの元を辿ると、日本に存在した巨大掲示板2ちゃんねるに行きつく…というような、そんな話になっています。

Qアノンの発祥はアメリカの4chan。もともとは2ちゃんねるの思想を受け継いでアメリカに誕生した匿名掲示板でした。その創始者が管理権限を放棄したくなり、そして後任で管理をまかされたのが2ちゃんねる創始者のひろゆき氏だった、というわけです。Qアノンはひろゆき氏の庭で生まれました。

ひろゆき氏が「嘘を嘘と見抜ける人でないとインターネットを使うのは難しい」と答えているニュース映像のスクリーンショットは昔から長らくインターネット上に存在しています。インターネット上に嘘があるのは仕方ないからと匿名掲示板の危うい描き込みを放置し、その結果アメリカの議会が襲撃され死者が出るという民主主義の根幹を揺るがすような大事件が発生したわけです。そしてそれは実はひろゆきと2ちゃんねるにも大いに関係していた。これはなかなか日本人にとっては衝撃的な内容ではないかと思います。

一つ前に紹介した「戦争広告代理店」でもそうですが、現代で日常的にインターネットとSNSに触れている我々には非常に偏った情報が流入していて、いとも簡単に世論は操作されてしまう、という感覚は選挙結果など見てもなんとなく皆さん思うところはあるのではないか…と思っています。

今後もSNSとインターネットに触れ続けるのであれば、こういった本に少しだけでも触れてある程度の問題意識を持っていた方が自己防衛にもつながるんじゃないかな…。などと、そんなことも思ったりもします。

生命・DNAは宇宙からやってきた

パンスペルミア説という学説があります。その主たる主張は本書のタイトルの通りです。「生命というのは実は宇宙の中でありふれたものであり、生命とDNAは宇宙から地表に舞い降りてきた」という学説です。皆さんお察しの通り、現時点において主流な学派ではありません。

私は創作のネタ作りとしてパンスペルミア説の主張を一通り見てみようと思って読んだのですが、なかなか面白かったです。本書は生命は宇宙にありふれたものではある、という論拠を様々な物証と観測結果によって科学的な手続きによって説明しています。彼らの主張では季節性のインフルエンザも宇宙由来の隕石が運んできたバクテリア、ウイルス、DNAが影響を及ぼした結果であるとのことです。

当然そんなことは学校では教えられないですし直感的には信じられないのですが、それを証明するとされる証拠もセットで提示されると私には正直反論ができません。私の専門は計算機科学であって宇宙物理学、宇宙生物学は全くの専門外なので、論理的に正しいと思える証拠を提示されると反論が出てこないのです。そうしたことを1冊の本を読む間ずっと続けられると、もしかしたらパンスペルミア説とは正しいのかもしれない…という気持ちにもなります。

というか、もともと「主流として支持されていない」というだけで荒唐無稽な夢想じみた話だ、ということでもない説ではあります。実際、「はやぶさ2」は小惑星に生命の素となるアミノ酸が存在することを発見しましたし、「たんぽぽ計画」という名前で国際宇宙ステーション上で宇宙を漂う生命の素となる物質が補足できるか、という実験が行われています。これらの実験がパンスペルミア説を立証するために行われたものではないにせよ、宇宙空間に生命の起源がある、というのはありえないことではないということです。

私の感想としては、(ちょっと言い方は悪いのですが)夢があると思いますし、(これも言い方が悪いのですが)当初の想定通り小説のネタと手法としては非常に有用だな、というものでした。

科学というのは反証可能性がある理論の積み重ねで成り立っており、であるからこそ我々は科学が正しいと認識しています。しかしながら自分で世の中の物理を実験した範囲はかなり狭いわけで、実は科学の大部分は「その道を極めたアカデミアがそう言っているのだからそうだろう」と盲信することで成り立っている、とも言えるわけです。

現代の主流の学説とは違うことを科学的な手法で検証してくという面白い試みをつまみ食いしているような気持ちになれるのがこの本ですね。

漫画の原理

今年読んだ本です。

漫画の入門書というのは数あるんですが、これは商業漫画のメンタルの概観を掴むのにもっとも手っ取り早い良書だと思いました。商業漫画とはこのようにすべき、という原理が綴られていきます。例えばモノローグから話を始めるな、とか、汗と照れ線(照れを表現する頬の線)は使うなとか。

大場渉という編集者の方が中心に原理を説明していくんですが、それらは独自理論ではなく根拠と参考文献が事細かに記されています。参考文献リストそのものにも大きな価値があると思います。

しかしその一方で、「大場さんはこう言うけど私は無視しています」という漫画家の方針も併記されたりもしています。それを含めて漫画家と編集の仕事の進め方もうかがい知ることが出来る良書かなと思いました。おそらく、原理はあくまでも原理ということなのかな、と理解しました。漫画を描く人であれば、商業を目指すのだろうとアマチュアで同人誌を作るのだろうと、どちらにしても読んでおいて損はないとも感じました。

以降は感想というか、私の意見かも知れません。

私は商業漫画に対しては色々と言いたいことがあります。商業漫画はあまりにも読者に寄り添いすぎました。あまりにも商業を追求しすぎてしまったと思います。漫画の文章量で30ページとか、その程度ですらも読めない読者が増えました。3~4ページぺらぺらとめくって気が乗らなければそこで読むのを止めてしまう。

漫画の題材としては現代日本の生活からさほど遠くない話が好まれ、設定の理解が必要なファンタジーやSFは敬遠される傾向にあります。最初の2ページくらいで大目標とオチが説明されるくらいの分かりやすさが良い。何度も読まないと理解出来ない作品はそもそも読んで貰えない。誰でも分かる、誰でも想像出来る、誰もが期待する話でないと商業には向かない。誰でも理解出来て誰でも共感できるキャッチーなキャラクターでないといけない。

そんなことをしていたら漫画という文化は廃れてしまいます。

そして多分、漫画家も、編集者も、全員が同じ危機感を共有しているんじゃないかと思っています。

出版社の編集者という人たちは売れる漫画を作るプロです。漫画家が描いた作品にコメントして作品の軌道修正していく技量と知識がないといけない。日本語をしっかり扱えて、漫画の原理と業界知識に精通していて、これまでの成功体験がナレッジとして積み重なっていなければならない。そんな人たちが「馬鹿でも理解出来る漫画であれば売りやすい」などと浅はかな考えで漫画を作っているわけがないです。馬鹿でもわかる漫画を作って稼げればなんでも良いのならば、Meta社がやってるように詐欺や陰謀論みたいなコンテンツを配信して荒稼ぎするメソッドをやれば良い話です。でも、そんなことをしている出版社は私は漫画では見たことがないです。

たぶん、私が考えるような危機感などその業界のプロの方々は重々承知の上で、まず漫画や出版社が存続していくためには第一に商業として成功しないといけないし、いい作品を作るためにはヒューマンリソースが必要になってくるという、そういった背景があるんじゃないか。その上でがむしゃらに業界の方々が働いた上で出来上がったのが現代の漫画なんだと、まずそこでリスペクトがあってしかるべきだとも思います。

それを踏まえた上で自分はどうしていきたいのか、何ができるのか、何をやるのか。ということを今年は色々と考える機会が多かったです。規模の大きな話ではあるんですが、文化としての漫画が存続できるためにもっと出来る事があるんじゃないかとそんなことを思ったりもするんですよね。

つくもごみ

今年読んだ漫画です。

panpanyaの一番新しい単行本です。panpanyaの漫画作品はハッチングを多用して描き込まれたレトロな町並み、それと対象的に非常に簡素なデザインの登場人物、毎度繰り広げられる独特な世界観が魅力的です。選ばれているモチーフが秀逸な気がしており、誰しもが見た記憶のある光景、聞いたことのある固有名詞が多く、読者をシームレスに漫画の世界に引き込んでくれます。

最新作の『つくもごみ』そしてその表題作は本当にすごいと思っています。毎度毎度、読者が考えもしなかったような解決策や展開が提示されていくのですが、『つくもごみ』はその驚きが3回も4回も積み重なった素晴らしい作品だと感じました。単行本がおそらく6つくらい出ているはずですが、ここに至ってさらに実力が増し洗練されたストーリーになったように感じます。毎回おなじような世界観、構成であって、登場人物に至ってはどれも6種類くらいの定番のキャラクターの使い回しでもあるのですが、読者をまったく飽きさせません。

というわけで個人的にはすごく良かった本の一つだと思ったのですが、私の知人は「商業的になってしまった」という感想を持っていました。確かに、驚きの連続で面白い話に仕上げようとする意図はある程度感じるので、人によっては商業的と感じるかもしれないです。

panpanyaの本の表紙を見て気に入ったのであれば、どの本を買っても楽しめると思います。そして一つ買ってしまったら、全巻が本棚に並ぶでしょう。

あれよ星屑

今年読んだ漫画です。

戦後、復員して闇市で屋台(雑炊屋)を営む川島のところに戦中に部下だった黒田がやってくるところから話は始まります。視点は戦中や戦後を行ったり来たりしてストーリーが展開されていきます。戦中・戦後の話と言うと激動の時代であってみんなひどい体験をした後だし進駐軍もまだまだ日本各地に残って幅を利かせていた時代ですから、こういう作品はどうしても暗くなる…と思いきや、明るく笑い話になるようなシーンも多いです。

巻末にはすごい量の参考文献リストが列挙されており、ストーリーを構築したり当時の情景を描く上でリアリティを追求したんだろうなと推察されます。明るい話題や笑い話も多いのは筆者の作風もあると思いますが、実際の文献にあたった結果なのではないかと思います。私も当時書かれた手記やノンフィクション小説のようなものを読んでみても、当時の人たちの心情は現代人とそこまで大差ないような気もします。もっとも、その身が置かれている世界はまるで違うのですが。

「現代とは全く違う世界で、現代人と同じような心をもつ」というのは、実はSFやファンタジーと同じ構造です。現代人にとって戦中戦後というのは、もはやSFやファンタジーとも言えると私は思っています。

いつも思うのが、第二次世界大戦の空母艦載機搭乗員などは、GPSも存在しない時代に大海原にぽつんと浮かび移動を続ける空母を離陸して、目的地まで行き爆弾を落として帰ってくるわけです。レーダーでの誘導は当時もありましたが位置の暴露を防ぐために使用は限定的でしたし、通信はモールスでした。紙片がついた重りを落として風速を読み、地図と照らし合わせて現在位置を推測し、帰りはまた違うところに帰らなければなりません。とんでもないことをしていたなと思います。

話を漫画に戻しましょう。第二次世界大戦の戦中・戦後の話が個人的にはすごく好きであるという私のバイアスを差し引いてもこの漫画はとても魅力的であるように感じます。

偉大な漫画家の一人に大友克洋がいますが、大友作品はそれ以前と以後で日本の漫画という文化そのものを変えてしまった(と言われる)ので、「大友以前・大友以後」なんて言葉あります。個人的にも大友作品は非常に偉大に感じており私の心に深く刻み込まれていますが、『あれよ星屑』は大友作品と同じような衝撃を受けました。

漫画の絵というのは非常に難しく、漫画特有の表現やお作法みたいなものもあります。写実的か、デフォルメされた絵かというたった一つの軸のみに注目したとしても、簡易にこうであればよいと決めれるものでもありません。例えば、あまりにも簡略化された絵面は現代だとギャグ漫画やゆるい日常マンガであれば許されますが、シリアスなストーリーを扱う作品としては不適に感じます。じゃあとことん写実的であればよいかというと、そういうわけでもない。

その作者が描きたいストーリーを表現するのに適した絵であればなんでもいいとはおもうのですが、じゃあそれってなんなのか?というのは言葉で表現するのは非常に難しく、我々に出来るのは少数のサンプルを持ってきて「これはとても良くできている」などと評価することくらいではないかと思います。

『あれよ星屑』は戦中・戦後という時代設定を表現するのに最も適した絵柄・表現になっていると思うのですが、それにとどまらず今までに無かったような表現手法もたくさんあるように感じます。

その中でも目を見張るのはデフォルメされた絵柄と写実的な絵柄が場面によって適宜使い分けられた表現です。表情やポーズのみならず、コマの大きさや構図、描き込みの量で登場人物の心情を語るというのは漫画ではよく用いられてきた手法ではあるのですが、『あれよ星屑』はその手法をもう一段さらに高いところに持っていったな、と感じます。

そして、絵が非常に上手い。この作品を見ていると何度も何度も、「そういえば人間ってこういう表情をするな」と再認識させられます。あまりにも漫画の絵を見慣れていると漫画の世界のお作法に染まってしまいます。それはそれで作品を解釈するのに必要な時間だったり、脳の認知負荷だったり、そういったものが軽減されるので悪いことではないにせよ、やはり漫画で記しているのは人間であって、人間とは実世界に生きる動物であるというのは忘れてはならないなとそんなことを思ったりもします。筆者は人間をよく観察して漫画を描いているのだと思います。デフォルメされた簡易的な絵であっても、実物をよく観察した結果出来上がった絵には見るものを唸らせる魅力が存在します。

と、まあ、長くなりましたがそんな作品でした。

黒船

本記事で紹介する最後の作品は黒田硫黄です。

私は黒田硫黄作品が本当に好きで、色んな人に勧めているのですが、正直なところあんまり黒田硫黄作品が刺さる人は見たことが無いです。ちなみに、黒田硫黄作品だと今年は『ころぶところがる』という本を読んだのですが、『ころぶところがる』は自転車の知識もある程度知らないと面白さがわからないかもしれないのでこちらを選びました。

黒田硫黄作品の評価としては、よく斬新なコマ割りが引き合いに出されるのですが、個人的には正直なところコマ割りのすごさというのはあまり良くわかっていません。

私が黒田硫黄作品で好きなのは、まずはセリフかなと思います。かっこよくて心に残るセリフがたくさんあります。ただかっこいいだけではなく、作者が隠そうとして隠しきれなかった知性や教養といったものがにじみ出ているように思います。

そして続いて好きなのはリアリティ。登場人物の感情の動きやリアクション、そしてセリフも全てにリアリティを感じるのです。創作においてリアリティと言うとストーリーや設定を指して語られることが多いのですが、個人的には創作なのだからストーリーや設定がどれだけ嘘に満ちていてもいいと思うのです。一方で、登場人物の気持ちや発言に嘘があってはならない、と思います。言葉で表現するのが難しいのですが、黒田硫黄作品の登場人物はみんな「嘘を言っていない」と感じます。言い方を変えると、「演技をしていない」とも言えるような気がします。漫画の登場人物の演技って何?と言われるとそれは難しいのですが…。

『黒船』で一番私が好きな作品は『わたしのせんせい』という話でした。田舎の女子高生が主人公で高校の先生と付き合っている状態から話は始まります。その背景では町長選挙と政治の世界が繰り広げられ、そこに主人公も巻き込まれていくのですが、それと同時に先生との関係は想像もつかない方向へと進んでいきます。

描いているものはそれぞれが一つのストーリーの題材となるくらいに別のベクトルを向いているはずなのですが、なぜか黒田硫黄が描くとそれが一つの世界という箱にすっぽりと納まり、それぞれが無くてはならない存在になってしまいます。

黒田硫黄作品の終わり方も常に秀逸です。読者にその後の展開を想像させる余地を残すようなものが多く、そこでも「現実って映画みたいに常にきれいに終わるわけじゃないよな」というリアリティを感じさせます。創作なのだからきれいに終わってほしいという人ももちろんいるでしょうけれども、私は現実と近接された終わり方のほうが、なんとなく自分自身も頑張ってみようという活力をもらえる気がします。『わたしのせんせい』の終わり方については実際に読んでみて確かめていただければと思います。

そして、巻末に残された『わたしのせんせい』についてのコメント…。う〜〜〜〜〜ん私は納得がいかない!!!!と思うのですが…。これも、ぜひ読んでみなさんに考えていただきたいと個人的には思っています。

おわり

なんだか話が逸れてすごく長い文章になってしまいました。まあこんな感じです。

本記事をきっかけに何か読んでいただけたら嬉しいです。

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