anopara

創作で漠然とみんなが思ってるだろうなってことを言語化してみる

いつも何かを思っていて、しかし書き留めておかないと忘れてしまうのでここに書いてみようと思う。でも、誰かと議論して「あるあるだよね」って確認したわけではないので私しか思ってないことかもしれない。

ちなみにここで言ってる創作とは、イラスト、漫画、小説のことを指している。それ以外の創作は私はやってないのでわからない。

上手い絵を描く方法は大量に語られるけど、エモい絵の法則はほとんど誰も語っていない

でもこれは当然かもしれない。エモさは創作の中で簡単に生まれないから、創作は楽しいし価値が有るんだと思う。個々人が思っているけれども言語化できない、しかし、一定数の人の中には備わる共通理解や共通体験、そういうものをはっきりとは語れないんだけど「こう…わかるやろ!!」「わかるわかる」とする、そのやり取りが創作の根幹なんじゃないかと思っている。

睡眠不足を睡眠する以外の方法で解決することはできない

創作をしていると睡眠不足になるのは当たり前だと思うが、これを寝る以外の方法で解決することは不可能。寝るしか無い。寝ることを加味したスケジュールを立てるしか無い。私は徹夜や深夜作業をするのは締切前日のみ、と決めている。(それができるかどうかは別)

睡眠時間を4時間に制限されて落ちた集中力は、その後4日くらい連続で通常の睡眠時間を取らないと回復しない、という研究結果を読んだことがあるため。

このあたりがまとまっている記事だろうか。

寝たほうが絶対に良い

徹夜で作業効率が落ちても締切に間に合わないから…とやってしまうが、眠いときは数十分でも良いから寝たほうが良い。これもNASAの研究結果を読んだ。

人気の作品が良い作品ではない

「売れてるから良い」「売れてないから悪い」というのはマックのハンバーガーは世界一売れてるからマックのハンバーガーが一番うまい、みたいな雑な議論だと思う。

しかしながら人間は情報を食って幸せになる生き物でもあるため、売上とかなにかのランキングで1位を取った作品だ、という事前情報が作品の感想に全く影響しないわけではない、と思う。そしてそれは「人気である」という説明以外でも色々と応用が効くのではないか、と思う。

作家は作家自身が作品の一部になることもある

先の「人間は情報を食って幸せになる」にも通ずるんだけど、現代の作家は作家自身の生活や価値観などもセットで作品の世界を形成していると思う。昔からそういう傾向は少なからずあったものの、昨今はSNSが基盤であったりするためにその傾向はより強くなったように思う。これも作品の世界を説明するのに応用可能なのではないか、と思う。

好きな作品、書きたい作品、書ける作品、売れる(人気の出る)作品

これらは全部違う。自分が好きな作品があって、それと同じようなものが書けるかと言えば書けないこともあるし、好きであるが書きたいと思わないものもある。そして売れるかどうかはその全てに直交する概念だ。

自分が売れる作品を書きたいのか、好きなものを再生産したいのか、書きたいから書くのか、そしてそれを書く能力があるのか、そういったものをじっくりと考えたほうが良いように思う。

消費のための作品、長く楽しめる作品

キャッチーな作品はサイクルが短い。一方でじわじわと人気が出る作品は息が長い。即効性の薬と遅効性の薬のようなものだと思う。作品のどの要素がそうさせるのかはわからないけれども、直感的には作品を理解するまでの時間が影響しているような気がする。

これのどちらが良いかは人の価値観や時と場合によると思う。比較すると前者がネガティブな印象で語られる場面が多いように思うけれども、個人的には一長一短というか、やはり戦略的にどちらを取るべきかという方法論の話であるように思う。キャッチーな作品じゃないと読めません、という人は一定数居るし、人間の幸せとは日々の幸せ指数の微分によって決まると思うので前者じゃないと圧倒的にちやほやされる感覚は味わえないかもしれない。

キャラクターの記号接地

これはChatGPTと議論した内容。「キャラクターの記号接地」というのを考えていた。

私が考える「キャラクターが記号接地している」とは次のようなことだ:

ある物語に登場するキャラクターが、その物語の本質に深く結びついており、他のキャラクターに置き換えた際に物語の根本的な主題が変化してしまうような場合、われわれはそのキャラクターが「物語に接地している」と言う。

先に述べた「キャッチーな作品と長く楽しめる作品の違いは、作品を理解するまでの時間が影響しているのでは」という考えを掘り下げるとここに行き着く。つまり、長く楽しめる作品は登場人物が物語の中で記号接地している、つまり、物語と登場人物が不可分一体の存在となっているのではないか、という仮説である。それを理解するためにはある程度作品を読み解かなくてはならない。読み解くのにコストがかかる作品は深みが増して長く楽しめるのではないか。

描くことは見ること

絵を描くということはまず見ること、だと思う。同様の発言はちょくちょく見かけるが、これが自分で気づけるようになるまで私はだいぶ時間がかかった。思ったような絵にならないのは私の想像力が足りてないからだと思ったが、実は絵を見る力がなくて、想像と実際の間の差分、あるいは、正しい絵と現時点での絵の差分がわからなかったからだった。差分に気づけなければ、これはコンパスも地図もなく当てずっぽうに森の中を進むようなものであって、いい作品になるかどうかは完全に博打になる。

正しさは作品の良さとあまり関係が無い

絵や文章の正しさは非常に重要だが、それができたからと言って作品がよくなるわけではない。汚い町中華と綺麗な銀座の中華料理屋、どっちも美味いが店の印象はだいぶ異なる、というような話に近いかもしれない。

ただ、いくら汚いが美味いめしが食える町中華でも客が耐えれる限度は存在する、という点は非常に重要だと思う。

頭の中に何かが無いと何もかけない

創作とは書きたい(描きたい)ものがありきだと思う。なんとなくいい絵、いい作品に触れてなんとなくで作った作品はつまらないものが多かった。そういう作品はどこかで見た文章になるか、全部同じ顔の女の子、みたいな絵になる。

頭の中に出力したいものが何もない場合は何もしないほうが良い。無理に何かを作ろうと思っても何も出てこない。そうしたときにインプットが必要になるのだと思う。

ただ、ややこしいんだけど頭の中が空っぽで何もないから、一旦練習してみるかと思って手を動かすとなにかが頭の中に生ずることもあるので難しい。

漫画や小説だけ見てたってだめ

これはいろんな大御所が語っているんだけど、アニメや漫画や小説やゲームを作るのにアニメや漫画や小説やゲームだけ見てたってだめ、というお話がある。これはすごく同意する。

単に「そのほうが引き出しが増える」という話でもあるんだけど、それ以上に本質的に創作とはすなわち伝えたい核心のようなものがあって、それを表現するものだと思うからだ。その核心とは核心の表現型であるアニメや漫画や小説やゲームからはそのものを得られることはできない。ヒントは得られるかもしれないが。美味しいオムレツを食べて私もオムレツを作ろうかな、と思うことはあれど、オムレツを作るのに必要なのは卵であって、オムレツからオムレツを再生産することはできないという話だと理解している。

作家は見たものしか書けない

これは度々SNSで話題になっては「じゃあスペースオペラを描いている人は宇宙飛行してきたんですね」などという批判にさらされ、いや、そういう話と違うでしょ。と毎回思う。

作家は見たものしか書けないというのはそのとおりで、その理由は前項で述べたとおり。私が尊敬するキム・ジョンギ氏は「バイクを描きたいならまずバイクを買いなさい。銃を撃ったこと無いのに銃を描こうとしても変になる」と言ってた。まあ、後者に関しては韓国は徴兵制あるから…とか思いますが…。

例えば私はキョンシーの漫画を描きましたがキョンシーは見たことがありません。いないので。でも漫画を通じて描きたかったことは現実世界の街と自然、幼少期の思い出のようなものでした。

同じようにネコ耳の美少女が出てくる漫画があって、ネコ耳美少女は現実的には居ませんけど、そのネコ耳美少女が作品の中で体験することは作家の実生活や人生の中での体験に即した範疇で感じたことになりますよね?という話だと思います。

例えば「人知を超えた3万光年離れたオフトゥン星系の宇宙人がオフチョベットしたテフをマブガッドしてリットする」みたいな、何一つ語られてることが理解できない作品があったとしたら作品の体を成していないですよね?現代美術にはなるのかもしれませんが。

現実には存在しないもの、あるいは、存在しない状況があって、そこで私達が理解できることが繰り広げられるから作品になる。…ということが、少なくとも一般的である、というくらいは言っても良いと思っていて、なのでネコ耳美少女が出てきて恋愛する漫画を描くのならばネコ耳美少女を実際に見ないと書けないわけではないものの、現実の猫や現実の恋愛をよく観察する必要はある、という趣旨ですわよ。

宣伝への忌避感

宣伝と売上を求めることを忌避する、あるいは、面倒だと思う人は多い。目的にもよるのだけど、一人でも多くの人に届けるのが少なからず目的としてあるのであれば、宣伝するのに躊躇しなくて良いと思う。

IT系エンジニアの界隈でも似たような話がある。「IT技術は移り変わりが激しいので土日も勉強したり、勉強を勉強と思わない人がやっていけるのだ」という話に対して「そんな世界はしんどい」「生存バイアスだ」「そうやって人を選別しているほど贅沢を言えるのか?」「自社の教育能力の低さを説明しているだけでは」みたいな批判がいつもどおり付随する。

どっちの意見も一理あるが、私はこれは創作に限らない「やった人が一歩前に進める」というような話だと理解している。一歩進む必要があるかどうかは時と場合によるし、進む方向が目指すべきところとは違っている場合もある。ただ、「あいつは宣伝で戦ってるからずるい」みたいな卑屈な考えにならないように注意したほうが良いな、とは思う。

宣伝する必要性を感じない、宣伝をやりたくないという人に「絶対宣伝したほうがいいよ」と押し付けているわけではない、というのは重ねて書いておく。

批判も創作の原動力

とある人に「作品を貶す理由はどこにもない」という趣旨のことを言われたことがあり、ずっと考えているが、私はやはり批判は創作をする上での原動力になると思う。学問で先行研究を踏まえて自分の論文を書く、という行為と似たようなことが創作では既存の作品の批判、アンチテーゼという形で継承されることもあるような気がする。

ただ、それは人前ではあんまり言わないほうが良い、という話には同意する。だからここにもあんまり深いところまでは書かない。

勢いも大事

緻密に練られた作品よりも勢いにまかせて作った作品のほうが良いこともある。

再現性は多分ない

エモい作品を作るための再現性っていうのは多分無いと思う。

正しさはあとで獲得できるけど情熱はそうじゃない

ある作品を作っててなんか違うな、と思ったとする。言い回しや表現をこねくり回してもエモくならない。エモさは最初の初期衝動で決まっちゃう気がする。

自分の作品群を構成する上で大本になった原体験と、その作品を作る上での小さな原体験。そこから紡ぎ出される素朴な考え。伝えたいこと。意見したいこと。共有したいこと。そういったものが頭の中ではっきり固まってないと創作って絶対にうまくいかない。そういうものを情熱と言うのかもしれないし、「好き」と言えるなにかなのかもしれない。

情熱があると続けられる。

全部の項目に共通する一番大事なことって、これかもしれない。

それを書きたい、それをやりたい、伝えたい、好きだ、そういうシンプルな感情に突き動かされて作品を作る人たちはどんな評価を受けようとやり続けるし、やり続ける人はいずれ評価される。

でも、褒められたいから、売れたいから、ちやほやされたいから、自分がなりたいあの人が創作をしているから、そういう考えでは創作は続きにくいと思う。そういった動機で創作をするという事自体は駄目とは決して思わないし、動機がなんであっても書くやつが偉いとも思うし、褒められたい、ちやほやされたいと思うのは人間に元来存在する欲求の一つだと思うから卑しいなどとも思わない。けれども、続きにくさはやっぱりあると思う、という話だね。

私は創作多様性は生物多様性と同じくらい大事だと思っているので、プレイヤーが減るのは残念だと思うから、こう、何かを「好きだ」という気持ちをもっともっと研ぎ澄ませて欲しいと思うんだな。そうすると創作は続くんじゃないか、という気がする。

一周回って最初のところにたどり着いた感じがするんだけど、創作ってやっぱり自分の中にまず伝えたいこと、書きたいこと、描きたいことがあって、それを表現するということなんですね。というわけで頑張りましょうみなさん。

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