日常 240516
バイクを買え買えの話
バイクっていうのはライブ感がある。と思う。
ライブ感ってなんやねんという話になると思うが、なんかこう、「生きてる感」というか、「世の中の流れ、時の流れの感じ」というかそんな感じです。バイクは当然ながら外気にさらされつつ走るわけですが、これが思った以上にライブ感、自然とのグルーヴ感を感じさせるわけね。
例えばトンネルは夏に涼しくて冬は温かい。知ってました?私はバイクに乗り始めるまで知らなかった。地中だから温度変化が少なくてこういうことになるんだと思われる。あとは、雨の日のバイクとかも良いですね。雨の日にバイクで高速を走り続けるのも知らない人から見れば頑張ってるなーとかずぶ濡れで可哀想だなーとかいう感想になるのだろう。実際に雨具を着て大雨の日にバイクを走らせてみると、雨がヘルメットや雨具を打つ感じが夏の夕立に遭遇して軒下で雨宿りをしているような、あるいは安全なところから危険な世界を映画のように見つめている不思議な感覚、そういったものを感じ取ることが出来る。他の人は違う感想になるのかもしれないけど。
こういうことって経験しないとわからないことだと思う。別に経験したところで何かの役に立つかというと役には立たない。別に知らなくても良いこと。でも、人生の中で意味のあることってそもそも何だろうか、とも思う。広く応用が効く知識、仕事に役立つ知識、生活が便利になる知識。そういったものは意味があるのかもしれない。
けれども、そういった種々の便利な知識が直接的に人生の満足度や幸せを向上させてくれるようにはどうにも思えない。だから不要だ、と言いたいわけではない。意味のあることと同時に意味のないことを経験することが人生を豊かにするんじゃないかな、と思うんだな。
私の父親が「よく働いてよく遊べ」と言っていたのが記憶に強く残っている。私の父は定時制の高校を出てすぐ出稼ぎに行き、稼ぎの殆どは曽祖父に渡すような暮らしだった。だから自分の子供にはたくさん働いて稼いだ金は自分で使いなさい、と言いたかったのかもしれない。そうじゃなくて働くことも遊ぶこともどちらも大事だと言いたかったのかもしれない。どちらも言いたかったのだと思う。
バイクを走らせて感じたトンネルの中の気温も、猫をなでたときの柔らかい毛並みの感触も、書いている絵や小説を完成させたときに感じる複雑な感情も、日々の雑談も、ただの飲み会も、それがなかったら私の人生はひどく空虚なものになっていたとは思う。であれば、やはりそれらも私にとっては意味があるし必須のことであったのだと思う。
相対的頑張り屋さんの話
私は頑張り屋さんかもしれないと思った。
なぜそう考えたのかというと、それは他の人と比較して自分の方がより「頑張っている」と思うことが多かったからだ。この点に関しては特にそれ以上の根拠を列挙しようとは思わない。私は他の人に頑張り屋さんであることを認めてもらいたいわけでもなければ、褒めてもらいたいという意図も無い。でもこうしてブログには書いてるのですこしはそう思っているかもしれない。
冷静に考えると、その「頑張る」の比較ポイントは作業時間であったり、作業量であったりと単純比較できる量に基づいていることがある。これは嫌だな…と思った。私はとても面倒くさがりなので手間をかけずに成果を得たいと思うタイプの人間だから。これからもっともっと楽して成果を得たいな、と思うし、少ない労力ですごく頑張っている感を醸し出していきたいとも思う。ということはやっぱり頑張ってるねって褒められたいんやんけ。
もくもく会
もくもく会というものがある。「みんなで集まって黙々と何か作業を行う会」がもくもく会である。これは良いな、と思っていた。実際にやったことはない。
一方で作業通話というのはよくやっている。Discordなどで突発的に集まり皆がゆるく雑談しながら作業を行う、というものが作業通話である。私は作業通話を行う前は「誰かと雑談しながら作業に集中できるものだろうか?」と訝しむ気持ちが強かった。実際始めてみると、やっぱり集中できなかった。駄目じゃん。でもよくやってしまう。雑談が楽しいので。雑談のついでに作業会と言っても良いかもしれない。
物理的にface-to-faceで会って行う作業通話がすなわちもくもく会だとするならば、それもまた違った楽しさがあるなと思う。新型コロナが流行する以前から私の仕事はリモートワークが中心であったのだが、やはり顔を合わせるというのは相手の表情やジェスチャーを読み取れるという点で会話していても情報量が多いように思う。これはビデオ通話と比較しても明らかに異なって感じられる。
あとはその場で匂いや味、触感と言った感覚も共有できるのもオンラインでは出来ないことだと思う。分かりやすいのはみんなで集まってお菓子食べたりとかだろうか。なんだかもくもく会と聞くとみんなが集まっていろんなお菓子などを食べながら作業している光景が浮かぶ。それはもぐもぐ会かもしれない。
文章と絵
文章(小説やこうしたブログ)を書くのと絵を描くのと、両者は非常に似通っているように感じる。何もないところから発想をひねり出して他者が理解できるような形にこしらえるというプロセスが共通しているように思うのだ。
私は自分の中に何らかの表現したいことが出現した場合、それを文章として表現するか、絵として表現するかは単純にどちらの方法を用いるのがより楽か?で決めている。
そうしたことをしていてたまに思うのが、「描く」と「書く」という二種類の漢字があることである。これを単純に使い分けるのは面倒くさい。自分の中では文章を書くのも絵を描くのも似たようなものであると思っているから。
英語はもっと細分化されていて、絵を描くのは draw だったり paint だったり sketch だったり illustrate だったりする。一方で文章を書くのは write だけだろうか。今調べたところ compose や journal などといった動詞もあるみたいだ。なぜこんなにたくさんの表現があるのだろうか。
こんなにたくさんの表現があるということはやっぱりそれぞれが違うものと認識されているからこそだろうと思う。であれば私の感覚が大雑把すぎるということなのだろうか。
自分は絵と文章、どちらも表現の一手段だなどと分かった気になっていてあまり深いところまで考えていないのかもしれない。まあそれもそれでいいか、と思う。私は文章も絵も趣味でやっているだけでプロではないので好きにやればよろしい。結局、絵と文章について考えていくとそのように「趣味だからなんでもいいや」という結論に至ってしまう。やはり大雑把なのだろう。