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近況 231219

とりあえず近況をつらつらと書いてみる。

インフルエンザ

12月11日になんだか調子が悪く午後休みを取った。11日夜からしゃっくりが止まらなくなり、1時間感覚で止まるのと出るのが繰り返すようになる。結局このしゃっくりはほぼ24時間続き、本当にキツかった。自分の身体にとって効果が高いしゃっくりを止めるための方法がいくつかあるがこれらは今回役に立たず、ネットで調べて出てくるような方法も効果が無かった。唯一しゃっくりを止めるために有効だった方法が「嘔吐する直前まで水を飲む」というもので、しゃっくりを止めるために1時間おきに毎回1L弱の水を一気飲みしなければならない状態で、これが本当につらい。水を飲ませ続ける拷問があるな、と思っていた。

12日と13日は39.5℃の熱が出ていた。最初から嫌な予感がしていたのでずっと家庭内では隔離生活を続けていた。13日に病院を受診してA型のインフルエンザということが判明した。正直、しゃっくりに比べたら高熱はまだ耐えれる。解熱剤を飲めば動けるので仕事もしていた。効率は最悪だ。

ようやく症状が軽快したのは18日になってからだったが、その頃にはなんだかとにかく疲れてしまって、身の回りの色んなことをするためのやる気が完全に失せてしまった。あんまりネガティブなことを書きたくないが、しかし思考回路がどうしてもネガティブになりがちだった。

仕事

私は自分が仕事をするには、「その仕事が誰かの役に立つこと」「ひいては世の中のためになること」が最低限満たされていないとならない、と漠然と考えている。これは満たすことがそれほど困難ではない条件だと信じている。なぜならば、すべての仕事は必然性があるので仕事になるからだ。誰の役にも立たないような仕事をしても、そこにお金を投じる人は居ないだろう。役に立たない仕事は仕事にはなりえない。だから、仕事をしているならばこの条件はほぼ自動的に満たされるはずだ。

しかしながらIT業界というのはひどくややこしいところがあって、今やっている作業がどう考えても世のため顧客のためになるとは思えないことがままある。それはどんな業界にも程度の差こそあれあるだろうし、単に開発者の視点からユーザーが見えないということもあるだろう。

けれども、極小的な範囲においては今やっている作業は確実に価値を生み出さないだろうと確信できる瞬間があり、それが何度も続くとしんどくなる。普段はしんどくならないのだけど、ここ数日の思考だとしんどくなりがちだ。

森の妖精

次女が帰ってきて家の中を歩くと、高い確率で歩いたあとに木の葉や木片などが落ちている。これの掃除が面倒だ。

大方、歩道の舗装された部分を歩かずあえて落ち葉が溜まっている所などを通っているのだろうが、森の妖精なのだと思うことにしている。

人生においても合理的な選択肢はつまらないことが多い。合理的でクレバーな生活は精細に欠ける。合理的な投資。合理的な節税。合理的な自動車の購入。合理的なローン。合理的な不動産。合理的で商業的なストーリー。頭を使って考え抜いた上に導き出した合理的な選択肢は、そこから予期できる以上の価値を生むことはなかった。横断歩道と歩道橋が併設されている道があったとすれば、皆が通る横断歩道を歩道橋の上から眺めたほうが豊かな体験が出来るだろうと期待して生きていきたいと思う。

絵師

前回の記事であまり好きじゃない言葉というのを列挙したが、「絵師」も個人的にはあまり好きではなくから使わない言葉の一つだ。繰り返しになるが、他の人が使っている事について私は何も思わない。もっぱら私の好みによってこの言葉を使わないというだけである。

なぜ絵師という言葉が好きではないのかというと、第一に「漫画家」「イラストレーター」「絵描き」「画家」などなどより具体的で一般的な言葉があるし、「絵師」それ自体は例えば「浮世絵師」に見られるように歴史的な職業の意味を包含するので、単にインターネットスラングとして絵描き全般のことを指して「絵師」という単語を当てるのはどうかなと思うところもある。(そういったサブカルチャー的な使われ方も含めて言葉は進化していくのだという指摘はもちろん出来ると思うが)

プロに対する呼称としても、そのプロがどのような活動を行っているかに注目して適切な言葉を使い分けるというのが尊敬に値する行為だと思うし、「絵師」という言葉でひっくるめてしまうのはそれを指して語る側にとっては大変都合が良いものの、言われた側としてはやはり雑だと感じてしまうのではないだろうか。

昨今では、特にSNS上の「絵師」という言葉の使われ方を見ると、「何者かになりたい」という文脈の延長線にある一つの姿として「絵師」が使われることが多いような気がして、そういう意味でもあまり良い印象を持っていない。「絵師」は彼らにとって、その呼称を手にすることによって尊敬を集められるステータスの一つなのだろう。

であるから「AI絵師」という言葉が流行り始めたとき、一部の人は元来「絵師」しか出来なかった創作がそれほどの努力も無く可能になって安易にステータスが得られるものだと喜んだし、苦労してそのステータスを得た人の中には安易に絵師を自称するなと怒る人も居た。前者に関しては特に、そのロジックが正しいならば価値のある創作がコモディティ化したとも言えるので必然的に尊敬を得られるようなステータスにはなりえないはずで自己矛盾に陥っているとも言えるのだが、どうせ大したことは考えて生きていないのだろうからそれも仕方あるまい、と正直なところは思う。

ともかく、「何者かになりたい」という思いは常に良い結果を及ぼさないように思う。努力もせず本質的な理解も及ばず、単にその人が尊敬を集めているという事実だけを切り取って理解したつもりになって「XXになりたい」(XXのところには職業や"絵師"などの言葉が入る)などと言う人を嘲笑的にワナビーと呼ぶ。

私が思うに、「何者かになりたい」という漠然とした気持ちはワナビー以下であるように思う。ワナビーはまだ「こうなりたい」という具体的な姿を指しているからマシだが、「何者かになりたい」ではあまりにも漠然としすぎている。

人は誰でも「何者かになりたい」と思うときがあるのは仕方がない。「何にでもなれる」無敵の可能性を秘めた少年時代に別れを告げて大人になり、自分が社会の中でそんじょそこらに居る量産型の人間の一人であるという正確な理解ができてから初めて物事を成すために両手両足を動かすことが出来るのであって、いつまでも「何者かになりたい」「何者にもなれなかった」などといじけているのは時間の浪費であると思う。

そこまで言わんでもいいじゃないかとも思うし、説教臭いじじいになるのは嫌だな、とも自分では思うのだが、説教するのはじじいの役目でもあるような気がして、書くべきことは書かねばならぬという使命感に湧いて書いた。

誰かが言っていたが、説教すること、怒ることは、その指摘が正しければ怒られた側には一定程度のメリットが生ずるが、怒る側、説教する側にはメリットがないばかりか、パワハラだの言葉の暴力だのと批判されるリスクだけが存在する。だから、みんな怒りたくない。説教する人だと思われたくない。だから怒らないし説教しない。その結果、適切な助言を得られずに大人になる人間が多くなった。そういう場面が多いのではないかと思ってくる。

私が就職活動をしていたとき、同じく就職活動をしていた学部生の一人が面接で「成績に"可"が多いが何故か、と問われたがこれは圧迫面接だ」と憤慨していた。言われたくない言葉ではあるだろうから同情はするが、これを相手に非があるように言ってはならないだろうとその時は思った。が、あの時に今後の社会がどう変わっていくか、よく考えたほうが良かったな、とも思う。

インフルエンザ再び

この記事を書いていた折、長女が高熱を出して寝込んだ。おそらくインフルエンザであろうと思う。私がインフルエンザにかかったとき、家族にはうつすまいと部屋の中からほとんど外に出ず、ひたすらに耐えていたのだが。発症タイミングと状況から察するに、おそらくは学校で感染したものと思う。クラスでインフルエンザが流行っており、一緒に居る友達が次々発症して休んでいるらしい。ただただ徒労感を感じる。

新型コロナに感染したときも、諸事情あって新型コロナに感染した私が同じく感染した子どもたちの世話を1週間ほどしていた。嫁さんはその間、感染しないようにホテルに泊まらせた。その時のことを思い出す。

人生の中であと何度こんなことを繰り返せば良いのだろうかと思うと、正直な所気が滅入る。普段だったらなんとか耐えれるが、今は色々な部分が弱っている。

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