anopara

オリジナルという呪縛

某所で創作についての考えをもっと発信したほうが良いかなと思ったので、書いてみる。

自分の創作の過程を書いても参考にならないだろうなと思っていたんだけど、書いたら議論の取っ掛かりにはなるし、他の人も書いてくれるようになったらTIPS的なものを共有できるようになるし、やらないよりはやったほうが少しでも成長につながるだろうと考えを変えた。

ちなみに、私には秘密にしておきたい秘伝のタレとか秘伝のレシピみたいなものはない。誰でも思いつくごく当たり前のことをやっていると思っている。今回の記事もそういう話になると思う。


オリジナルであることや、ネタかぶりを極端に避ける人がいるように思う。こないだTwitter上で

作品に対して「同じネタを数年前からずっと温めてた〜笑」みたいな事をいる人がいるが、ずっと無精卵温めとけよ、と思う

という感じのコメントがあってちょっと笑ってしまった。私自身はそういう言葉は使わないようにしているが。ただ、温めている話があるなら設定を書くだけじゃなくてちょっとずつでも良いから作品で語ったほうが作る方も見る方も楽しいよ、とは思う。

自創作の設定を延々と書いたり、自分のほうが先に着想していたと暗に示したりする行動の影には、「自分がゼロから考えたのだ」とか「自分が先に考えたのだ」といったオリジナルに対する強いこだわりがあったり、ネタかぶりは良くなくて避けるべきことだという考えがあるのだと思う。あるいは、「パクリ」だと言われるのを極端に恐れているとか、そういう感情もあるかもしれない。

パクリはよくない、オリジナルを重視してネタかぶりは避けよ、という話は基本的には同意する(笑えるパロディとかファンアートとかいくつかの例外は存在するがそのあたりは割愛)し、正しいとは思うけど、あまりにも行き過ぎると害のほうが大きくなってくると思う。

というのも、人間が人間によって鑑賞されることを前提とした作品を作る限りはネタかぶりを完全に避けることは絶対に不可能だからだ。

絵でも小説でも映画でも写真でも、すべての美術作品は鑑賞する側の体験や知識を必ず必要とする。ほとんどの人が分かるような普遍的な感情や体験に訴えかけるのか、あるいは「分かる人にだけ分かればいい」と対象をある程度限定するのか、そういった違いはあるだろうが、鑑賞する側の体験や知識に全く依存しないということはありえない。

すると、誰かに理解してもらうためには誰かと意思や感情を共有しなければならない。ということは、ある程度他の人に分かることをモチーフにしなければならない。だから必然的に他の人も思いつくようなことをある程度は織り込まなければ感情や意思を共有できないはずだ。

もう一つ。それに加えて、学術であれ芸術であれ、すべての人間の活動は偉大なる先人たちの肩の上で行っているという指摘も当然できよう。表現する技術や鑑賞するための前提知識は、それまでの作品があったからこそ成り立っている。それらの影響を一切排除して作り上げたオリジナル作品は誰にも理解できないものになってしまう。

以上の話を鑑みた上で、それでも自分の創作物はそうではない、他の真似ではない、完全にオリジナルな作品なのだと強く主張するのであれば、それはもはや先人に対する敬意に欠けているとすら私は思う。学問であれ芸術であれ、先人の影響を完全に排除することは絶対に不可能だ。

人類の創作はシェイクスピアあたりの時代にすでに一通り出尽くしていて、以降の芸術は既存のネタの再構成である、という話をたまに見かけるが(元ネタ不明)、つまりそういうことなのだろう。

一次創作、二次創作、ファンアート、模写。これらはすべて区切られた箱で分離されているのではなくて、グラデーション状の領域として存在しているのだと私は思っている。なにか特別なことがあれば一次創作という特別な箱に入るわけではない。

それを踏まえた上で、創作を行うときにどうオリジナリティを演出すればよいのか、というのを私は長らく考えてきていて、そしてたどり着いたのは、「オリジナリティとは既存のモチーフや表現の組み合わせのことである」という仮説だ。

表現技法や扱うモチーフは既存の作品で出尽くしていて、作る側も見る側も先人の影響を十分に受けている。それでもなお、私達が新しい作品に触れて既視感を感じずに楽しむことを続けられるのは、既存の要素の組み合わせが無限に存在するからではないか。そう考えている。

ここに創作のヒントがあると思う。オリジナリティを演出したいとき、オリジナリティとはゼロからの発想でなくてよいということになる。そもそも、今までの作品では決して使われてこなかった全く新しい発想など無いのだから。

補足すると、完全に新規の発想は無理だからといって新しいことを発想する努力は放棄すべきではないと思う。出来ないからやらない、と、出来ないながらもやろうとする、には大きな違いがあると考えている。どう違うのか?まではここでは説明しないが。

そういうわけで、こないだMisskey.art上で見かけた面白いアプリがキャラデザ要素ガチャというものだ。登録しなくてもこちらから実行することができる。

拙作が例で恐縮だが、自分の場合は以下のような要素が出てきてこれをベースに絵を描いた。

  • 特殊な形の瞳孔
  • ゴツめのスニーカー
  • ふとまゆ
  • サラサラストレートロングヘア
  • ギザ歯

いずれの要素もアニメや漫画の世界ではよく見る表現ではあるが、それを組み合わせればオリジナルになる。自分の場合はこれにさらにいろいろ付け加えてしまった。なのでちょっと収まりが悪い。

と、まあここまで書いたようなことを創作の最中に考えていたりする。その他に類似のことで考えることがあるのは、

  • 時にはあえて使い古されたネタで勝負してみる
  • 常に自分が表現したいこと、描きたいことを最優先にする。多少のネタかぶりは許容する
  • 先に挙げたアプリようなランダム要素を用いる
  • 夢から着想を得る。夢は自分自身では想像ができないようなアイディアが生まれやすい
  • 陶酔してしまうまで一つの作品にハマらないようにする(ハマるとそれに大きく影響されてしまう)
  • あまりにも自分と近いようなことをやっている人の作品はそもそも見ないようにする

というあたりだろうか。

特にまとめやオチはない。終わり。

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