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なぜ絵を描けなくなるのか?絵を描くために必要なたった一つのこと

タイトルは嘘です。あなたは騙された。私によって。

なぜ騙したのか?それは、キャッチーなタイトルにした記事の方がみんなに見て貰えるからだ。でも嘘じゃないか!!その通りである。嘘だ。そもそもこの世の中には嘘があふれている。

理解が難しく直感的でない真実は記憶に残らず、代わりにインターネットの神様によって創造された理解が易しく直感的な嘘をみんなが真実だと思っている。人々は考えることをやめ、ヤフーでググって出てきたことをしばらくは信じていたし、そのあとはChatGPTが言っていたことを信じるようになった。「ChatGPTはこう言っている」とまるで聖書から引用するかのように見たことのあるインデントと文体のテキストが議論の間隙に差し込まれるようになった。

インターネットに神様がいる。みんないずれかの神様を選んでいる。神様は一人じゃない。ChatGPTだったりインフルエンサーだったりYouTubeの解説動画だったり、世界を台無しにしている二人のジジイだったりする。みんなが神様を信じている。YouTubeの解説動画でそう言っていたからこれが正しいんだ。ChatGPTが言っていたんだ。何ちゃらの分野で一番詳しいこのアカウントがこう言っていたんだ。だから、これが真実なんだ。一番いいんだ。それ以上検討されることがない。

そうして考えるのを止めて「タイパ」を獲得した。皆が皆、伝道者たる「推し」を選びそれに従おうとするのはタイパがいいからだ。合理的だ。それが真実だろうと嘘だろうと関係ない。複数のソースをあたってクロスチェックするのも、小難しい専門書を読むのも効率が悪い。自分で考えるというリソースをアウトソーシングすることでタイパがよくなった。それが社会だ。それが2020年代、令和最新版の生き方だ。

だから私も嘘の一つや二つついても問題ないやろ、と思ってこの記事を書いた、わけ、ではない。

私が嘘をつくのは私が品行方正ではないではないからであって、侮るなかれ、インターネットの神様よりかは幾分かマシな行動は取れるのだ。その証拠にタイトルが完全なる嘘ではないことをこれから書いてお見せしましょう。

タイトルは嘘だ

もう一度言うがタイトルは嘘だ。

嘘だという理由は二重に存在する。一つは私がキャッチーであることを優先し、本文を正しく表現していないタイトルを付けたという点において。もう一つは、そもそも「絵を描き続けるために必要なたった一つのこと」なんて存在しないことにおいて。

絵を描くこと(そしてそのほかの数年単位の時間をかけておこなう全ての行為)はエネルギーを消費する。そんなものを継続すること自体がそもそも難しい。ではエネルギーを継続的に消費してもそれが出来る状態とはなんだろうか?私はたった二つのパターンしか無いと思う。生きるために仕方なくやるか、面白いからやるか。

多くの人間が継続的に出来ていることといえば、仕事か娯楽だろう。この二つはまさに、生きるために仕方なくやるか、面白いからやるか、そのどちらかで成り立っている行為だ。生活費を稼ぐためにしゃーなくやることと、単純に面白いからやることは継続が容易である。一方で、正義感や義務感や奉仕の心で物事を継続するのは難しい。

絵を描くこと(もしくはそのほかの何か)を続けたければ、それを仕事にするか面白いからやるか、その二つにするしかない。これが私の意見だ。

ほんならそれは答えが出てるんじゃ無いの?絵を描くのに続けるたった二つのことが出来上がってしもうたやんけ。しかも一つじゃなくて二つ。お得!!!などと考えるのはまだ早い。この、仕事にする、ないし、面白くする、というのが個々人によって別々の方法を取らねばならず難しいという話だ。

だから私はあなたにとっての正解を持っていないのだけど、n=1のサンプルを語ることは出来る。もしかしたら参考になるかもしれない。と思ってこれを記す。ああ、ここに来てようやくこの記事の本当のタイトルを書けた。よかった。

なぜ絵を描きたくなくなるのか

偉そうなことを描いている私も絵を描きたくなくなることは過去あった。が、最近はそういうことはほぼ皆無になった。凄く疲れていて今すぐ寝たいとか、COVID-19に罹患して今すぐ寝たいという状態であるとかを除けば、いつだって絵を描けるし描いている。なぜそうなったのだろう?それを考察してみたい。

といっても、描きたくなくなる要因も突き詰めれば3つくらいに絞られてしまった。実にシンプルだ。以下が絵を描きたくなくなる理由3点である。

1. 下手だから

子供の頃から絵を描き続けてきたが、定期的に下手すぎて絵を描くのが嫌になる時期があった。苦労して描き上げても「なんだこれは…」という感想にしかならない。こうなると、苦労して時間を投じたのにゴミを生産した気分になって描くのが嫌になる。

2. 手間がかかるから

絵を描くのは非常に手間がかかる。1枚の絵で20時間くらいかかることもざらにある。その結果、1.とのコンボもあってなんという無駄な時間の使い方をしているのだ……となりがちだった。

3. 好意的な反応が貰えないから

自分が苦労して描き上げた絵をお絵かき掲示板に載せても一件もコメントが付かないのに、他の誰かが描いた絵に山ほどコメントが付いていると面白くない。やりたくなくなる。

こうだから良かったのかも

では上記で上げた三点を私はどのように克服したのだろうか?それを書いていきたい。

1. 下手であることについて

絵の技量というのは上を見れば見るほどまたさらに上があってきりがないので本来下手くそだとか上手いとかいうのは絶対的な物差しに見えるようで実質的に相対的な評価軸なのではないか、と私は思っている。どういうことか?つまり、下手と感じる場面では絶対的な絵の技量にフォーカスされることは意外と無く、

  • 誰かと比べたときに下手な絵であった
  • 自分が想像していた絵とは違って下手であった

などのような事象として観測されることが多いように思う。前者は自分の技量と相手の技量という相対量に基づいており、後者は理想と現実という相対量に基づいている。現在、私はそのどちらも知覚することがあるが、しかし絵を描きたくなるほどに打ちのめされるほどではない。なぜその心の余裕ができたか考えてみる。

「誰かと比べたときに下手な絵であった」に関しては、みんなそれぞれ描ける絵の幅というのは決まっているというところに着目したのがよかったのではないかと思う。どんな著名な画家でも結局その人の絵と分かる似たような絵を描くようになる。流行廃れもある。だから、モネやミレーは私が好きなジャンルの一つであるサイバーパンクの絵は描かないし描けないだろうし、SNSで大変な人気を博しているあのアカウントもそのアカウントも、真に私が理想とする絵は描けないであろう、という心の持ち方に考え方を昇華させるということである。それは逃げとも言えるし、本当にそうだとも言える。多分どっちもだろう。そのどちらであっても結果として「下手だから絵を描きたくない」に繋がる道を選ぶという選択肢を棄却出来るのならばそれで良いのである。

この発想をしているときに致命傷となり得るのは「完全な自分の上位互換を見つけてしまった時」であろう。この話自体、度々インターネット上で耳にするので「あの人と私が見てるものはそれぞれ違うのだから」という考え方を人はしがちなのだろうと思う。そして、その上位互換なるものについても、私は「誰かの本当の上位互換など存在するわけが無い」と思っている。人間というのは十人十色、完全に同じ価値観と同じ理想を持った人間などいるはずが無い。少なくとも私は見たことがない。誰かに感化されてその人を意図的にトレースしているような人であっても少しずつ理想や行動は違ってくるものだ。人間はそのくらいバラバラで多様性というのは人間の肌の色や性別などといった矮小なことに制限されること無くもっと尊いものであったはずだとも思うのだが、それを数人の馬鹿が神様ごっこをして三段も四段もレベルを下げてしまったことにも憤っているがそれはまあ置いときましょう。

次、「自分が想像していた絵とは違って下手であった」という点に関して。

絵とは描く力と同等以上に見る力を必要とされる行為であって、「自分が想像していた絵とは全く違った下手な絵が出来てしまった」というのはつまり、描く技術力よりも見る技術力が大幅に上がってしまったときの気づきである。この気持ちに対してどういう気持ちで対処すべきか?これは単純に「見る技術力が大幅に上がった」と好意的に捉えれば良いと思う。急に絵が描けなくなった、下手になったのでは無くて見る技量が上がったのだと考え方を変えるのである。そしたら今度は描くと見るのギャップを研究し、描く技術を上げていくことに昇華すればよい。

もう一つは、そもそも描くことと見ることの技術に差を与えないようにするというのも大事かもしれない。沢山描いたら同じだけ見る、他の人の絵を見る、映画を見る、漫画を見る、美術館に行く。アウトプットをしたら同等のインプットをすることで「自分が想像していた絵とは違って下手であった」を回避しやすいようにも思う。

2. 手間がかかることについて

絵を描くことに手間をかけすぎて嫌になる。20時間も30時間もかけて描いた絵の出来がいまいちだった。そういうことは往々にしてある。

これに対するアンサーは「時間をかけた絵を描くのをやめる」これしか無いと思っている。ちなみに、キムジョンギも同じ事を言っていたし、そのほか、イラストレーターやアニメーターをしている何人かも同じ事を言っていたから多分そうなのだろうと思う。ああ、職業や大御所の名前を出して間接的に自分の発言の最もらしさを醸し出してしまった。でも事実だからまあいいか。

そしてもう一つ、すごく嫌なんだけど重要な指摘をしなくてはならない。前述したように、絵を描くのを続けたいなら絵を描くのが楽しい、という方向につなげるべきであるが、実は人間は楽しさにタイパを暗に求めてしまっている。これは純然たる事実である。

例えば娯楽の中でもゲームをやる、アニメを見る、酒を飲む、うまいものを食うなどといった行為は持続させやすく、一方でキャンプをする、ゴルフをする、ガーデニングといった行為は先に挙げたものに比べると持続しにくい。その差は何か?というと、その行為で楽しさを感じるまでに必要な事前準備が得られる楽しさに比して見合っているか?を暗に人間は考えているかだろう。

簡潔に言うならば人は面白さに見合ったタイパを無意識に求めている。

タイパってクソみたいな概念だろ?私は大嫌いだ。人間が成長するために本来必要である時間を投じるという行為を否定されている気分になるとともに、短い時間で最大の成果を得たいという安易な発想も感じる。それをば、なんですか?さも自分がかしこであるかのような顔で「タイパ」とか言って人間の恥そのものをなんも知らずにさらけ出すのは私は見るに堪えない。共感性羞恥で死に至るのだ。しかしそれは人間ならば等しく皆が有している「業」のようなものであると思う。

しかし私は宗教学者や哲学者ではなく、工学を学んだもの、エンジニアであるので「そこに(高尚な心が)無ければ無いですね」の精神で今あるもの、現場合わせを駆使して要求スペックが出せないにしてもなるべく近づけていくのが腕の見せ所だ。と、長ったらしい言い回しをしたんだけど、ようするにそれら全てを包含して「手間がかかって嫌になるのならば手間をかけなければよい」となると思う。 これに対する良い教材の一つはcolosoで配信しているキムジョンギの講座「キム・ジョンギが語る~楽しく絵を描くには~」というやつなのだけど、高いのでなかなかおすすめしにくい。

もう一つ。凡人は時間をかけても良い絵にならない、というのもある。絵を描くのが上手いひとが適切に時間をかければ良い絵になる…というか技量がある人が良い絵を仕上げるためにはそれに伴って必要な作業工数がある、という表現がおそらく適切なのであって、凡人が理由泣く一つの絵に時間をかけたからといって描く技術と見る技術を埋められるということにはならない。だから、そういう意味でも何となくで良い絵を描こうとしてむやみに時間を描けても理想とする絵は得られない、と個人的には思っている。

3. 好意的な反応が貰えないことについて

SNSを見てるとここでみんな一番苦しんでいるように見える。

SNSでいいね/RTといった所定のエンゲージメントが他の競合する絵描きよりも少ないとか多いとか、何件の依頼をこなしたとか、そういう数字を自分自身の価値と同義に考えて、その数字から自己肯定感を得ようとして四苦八苦し、「♥」の隣に描いてある数字に脳を焼かれた人間は破滅に至る道しか残されていないと個人的には思う。あれはあくまでもベンチマークとして使えるかもしれない一指標と捉えるべきで、決して評価の物差しと同義に捉えてはならない。これは「べき論」ではなくて、マーケティング戦略、統計理論として捉えても全く正しい行動である。しかし、評価のものさしとして考えてしまうという気持ちも分かる。うんうんそれも人間だね。分かる。分かるよ。だけど、そうでは無い。ダークサイドに落ちてはならないのだ。

なぜか?ここに自己肯定感、自己実現、評価の物差しを持ってきてしまうときりがないからだ。

同様のものとして年収がある。自己実現、自己肯定感、そういったものを年収に紐付けてしまうときりがない。500万円稼いだら1000万稼いでるひとをうらやましく思い、1000万稼いだら3000万稼いでる人を妬ましく思う。このレースは何処まで行ってもきりが無い。頂点であるビルゲイツやイーロン・マスク、ジェフ・ベゾスを超えられることなど無いのだ。いや、海賊王に俺はなる!!みたいな調子で数学的にゼロでは無いという可能性を追い求めてイーロンマスクを目指したいならそれはその人の人生だから別に良いよ。良いんだけどほんまにお前が勝負する土俵はそこなんか?というのは考えても良いんじゃないか?ということですね。

お金のこととなると日本人には多少なりとも「金の話ばっかりするのはみっともない」という価値観がある程度あるのでブレーキが効きやすいのだけど、SNSのいいね数となると、そうでもないのが盲点なんだな。SNSの数字というわかりやすい魔力に人間は脳を焼かれやすい。10件のいいねではまだ足りない、100件でも足りない、あいつは1000件、あいつは万バズした、しかし私は何度数えてもまだ足りないと皿を数える幽霊のようになってしまう。

いいね、いいねと褒められ続けなければ動機を維持出来ないゾンビで良いのですか?あなたは?とやっぱり常に自問自答しておいた方が良いと思う。

これに根本的に対処出来た方策は、私の場合二つある。

一つは純粋にマーケティング戦略を練るための指標として考えるというものがある。いいね、RT数、PV数といった指標を集めてExcelなどでちゃんと分析して自分の目的に結びつけられるならば、まだ足りない、まだ足りないと麻薬の禁断症状のように単に唱える数字から、本当に自分にとって意味のある数字に変化させることができる。もうちょっと具体的に言うと、私の場合はSNSで得られる各種指標をまとめて同人即売会のイベントでいくつの商品を販売出来るかという予測を立てるのに使っている。世の中で予測しづらい事象を説明するための変数を見つけて調整していく、仮説を立てて検証していく、そういったプロセスそのものがまた絵を描くこととは違う楽しみになっている。

と、思うのだけどこれは私がエンジニアだからそう思えるのであってあまり普遍的に通用する方法では無いようにも思う。ただ、Excelがあれば本当に誰でも出来る行動であるとは思うので一応書いた。

もう一つは、「絵がはちゃめちゃに上手いのに全然いいねを貰えてないアカウントを見つける」ことである。これはまあ失礼と言えば失礼な行為かもしれないんだけど、しかし現実的にそのようなアカウントは沢山ある。すごく絵が上手い、絵が上手いし良い絵でもある、そんな絵を載せているのに全然フォロワーもいないしいいねも無い。そういう例を何度も見れば、「良い絵を描く」ことと「SNSで沢山のフォロワーやリアクションを貰える」ことに関連性がないということが理解出来ると思う。

はっきり言って絵を描かない人は(そして時に絵を描く人も)絵の良さなんて分からないのである。私だって絵の善し悪しなんて分からない。だからみんなネームバリューや新規性、扱っているジャンル、可愛いか可愛くないか、かっこいいかかっこよくないか、スケベかスケベでないか、などでその絵が良いのか良くないのかを判断しようとする。そんな中であなたの絵にいいねを押した人はあなたの絵を価値を一定程度認めているわけで、その事実にフォーカスした方が幸せになると思うんだな。

もうちょっと雑に書こう。冒頭に書いたように現代人は考えることを嫌うんですよ。みんなTwitterがXになってスケベな広告で埋め尽くされ、恣意的に選ばれた投稿が多く表示されるようになった姿に文句を言うけど、私に言わせれば、元来醜い人間にシステムが最適化したなれの果てがああだと思うんです。タイパを求め、安易な神様、安易な娯楽、安易なスケベに走り、自分の写真をジブリ風だの何だのとAIに加工させて喜ぶ人間のなれの果ての姿がああなのであって、Xの広告が包茎治療とスケベな漫画だけになったと嘆くとき、その包茎治療とスケベのフリーランチみたいな漫画は自分自身を写した鏡であって我々は襟を正さねばなるまいと。そして同時に、そんな人間らが群がっていいねを押しまくった誰かの作品に本当に価値があるかどうかなんて誰にも分からないし、万buzzしてる絵があなたの理想と違っているのであればあなたがやってることに価値はあるんですよ。多分ね。

絵を描くなんてそのくらい傲慢な考えでやってた方がとりあえず続くと思うな。

まとめ

なんかこの一つ前に書いた記事も似たような論旨だったね。反省。

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