消費のためのコンテンツ

twitterで「AIによる創作物がたくさん登場することで今後コンテンツの消費速度がどんどん上がっていってコンテンツをじっくり楽しむということそのものができなくなる」という話を見かけた。

この件に関しては私も一家言あって、ブログにも書いたんですよね…と思って確認したらどうも書いていないっぽかったので書いてみようと思う。ので、書いてみる。

AIの登場に関わらずもうそうなってる

そもそも「コンテンツ」という言葉が使われるとき、それが示す対象は商業作品である。営利目的である。利益を多く上げることを目標として作られるものである。美術館に行ってミレーの落ち穂拾いを見てそれを「コンテンツ」とは言わないだろう。営利を目的とせずもっぱら自らの意思と美的感覚によって生み出された作品がアート、美術作品になる。だから、漫画家は編集者の指示・意向を全部無視して作品を作ることはできないし、デザイナーは顧客が「ここの隙間が開いてるのが気になる」と指摘したら小言を言いつつもマージンを詰めないといけない。自分が良いと思ったものを忠実に作るならそれは営利を目的とせず美術作品を作れば良い。

しかしながら以上は原理原則であって、現実的にはアーティストは自分の創作物が売れないと食っていけないし、顧客の依頼に応じて作品を作るデザイナーは自らの美的感覚の全てを封印して顧客の要望をすべて受け入れるわけにはいかない。だから商業的であるか、美術的であるかは2値ではなくて実際はグラデーションになる。

「コンテンツ」とはそのグラデーションのうち商業的なほうに位置する作品である。だから、コンテンツは「消費」される。消費されて利益を得なくてはならない。コンテンツはたくさん買ってもらわないと存続できない。だから新しいコンテンツが次々投入し、人々はそれを購入し、楽しまなくてはならない。それが経済であって商業である。本来、そのことに良いも悪いもない。AIが登場したことによって消費速度は上がるかもしれない(上がらないかもしれない)が、コンテンツが商業的で消費するものである以上、消費速度を上げてお金を回すことが本来の目的であるのでそれが「悪い」というのはそもそもおかしいと思う。

何が悪いのか

ただ、冒頭の言で言わんとしていることは私にも理解は出来る。要するに刹那的に過ぎ去っていく作品を一生懸命眺めるだけではじっくりと鑑賞するエモさを噛みしめる喜びが生まれないということなのだろう。それは全くそのとおりだ。そしてそれは鑑賞する人の考え方の問題だ。刹那的に過ぎ去っていくコンテンツを動体視力を鍛えて眺めることで満足感を得られないのならば、単にそれをやめれば良いだけである。

「大量のコンテンツに押し流されて見えなくなってしまう」ともし考えているのならば、それは単に消費するためのコンテンツを消費するために見ているからに過ぎない。それが商業的であれ、美術的であれ、何か自分の好きなものを見つけたら、止まってそれを見ればよい。商業的なコンテンツが洪水のように押し寄せているからといって、その洪水に飛び込む必要は何もない。

ではなぜそういう発想になってしまうのか?それは商業的なコンテンツの宣伝に飲まれてしまうからだと思う。本件に関して唯一問題があるとすれば、ここである。

本屋に行って帯を見れば、「ヤバイ」「感動した」とか中身のないコメントを寄せている著名人の名前が書いてある。「重版出来!」と同じ本が何度も宣伝される。曲調、歌詞、PVのカメラモーションや編集までそっくりな韓国アイドルグループが延々と流れる。今シーズンのアニメのリストが列挙される。映画の興行収入ランキングが報じられる。

自分が支払った金をどぶに捨てたくないからなのか、売れている作品に価値があるとおもっているのか、そのあたりは不明だがいつしか「新しくて人気があるもの」だから価値があると錯覚してしまう。その結果、例えば読書を語ったとしても「俺はこんなにたくさん読んだ」「こういう有名作家の作品を一通り読んだ」「最近発売されて人気を博しているこういう作品を読んだ」という浅い感想しか感じなくなる。

「忙しすぎてコンテンツを楽しめない」と思ったなら、それは完全にその人の問題であって、その人自身で容易に解決可能だ。気に入った作品を見つけてじっくり鑑賞すれば、それでよい。好きな作品の話題を楽しむために最新作をいち早く楽しむ必要はない。いい作品は何年経ってもファンが語り続けている。そういう作品が見つからなかったら探せば良い。広告に書いてあることはまともに捉えなくてもよい。よい作品は古くても新しくても良いものであって、そして何度も鑑賞することに耐えうる作品である。売れているとか、人気だとか、有名作家だとか、そういうのは一旦忘れると良いな。