日々の雑感 220810

自動車学校

自動車学校、略称があったよね。うちは「車校(しゃこう)」だった。

上記は私が書いた短編小説の一節で、こういう特定の地方とか特定の時代しか通用しない言葉を何の説明もなくぶっこむのが好きである。もちろん、なんとなく想像してもらえれば意味は分かるだろう、という単語に限るが。他の略称を調べてみると、「自車学」「車学」「自車校」「自学」などがあるらしい。こういうのはその地方で特色があって面白いと思う。

しかしながら東京でこういった略称を使っている人を見たことがない。東京生まれ東京育ちの知人は「教習所」と言っていた。言いやすく、意味もわかりやすいのでこの言い方がおそらく標準的ではないかと思う。

前述したような略称が出来た背景としては、主に地方で高校卒業ないし高校在学中に自動車免許を取得するような人たちがいる、ということが考えられると思う。高校生くらいのときは何かと言葉を略して自分たちにのみ通用する新たな単語を作りたがる傾向があるが、その一つの結果として前述したような言葉が生まれたのだろう。

同様の例として、自転車の二人乗りを「ニッケ」と言っていた。おそらくは「ニケツ」が多数ではないかと思う。ケツ、尻が2つでニケツ。そこからニッケ、とわざわざ言葉を変える意味は無い。そもそも短い言葉だし、短くもなっていない。これも何か言い方を若干変えて新しい言葉を作るのがいけてる、みたいな価値観だからそうなったんじゃないかと思う。

社会に出てくると年齢の近い人だけであつまったグループというのが形成されにくい。だから常に標準的な言葉を使ったほうが意図は通じやすい。「仲間」の連帯感を高めるよりも自分の意図を齟齬無く伝えるほうが有利な生き方になる。逆に、学生時代はそうやって「仲間」の連帯感を醸し出さなければ阻害される、そんな世界であった。

私は社会人になってからのほうが生きやすいと思う。社会に出て常識的なお友達グループにJOINする。それは会社という名前だ。皆が常識的な振る舞いをして常識的な考えを持って常識的に利潤を追求する。そしてみんなでお金を稼いでよかったね、という流れになる。失礼な事を言うやつも中にはいるが、ほとんどそういうのは見かけない。だから、やっぱり社会に出てからのほうが生きやすい。

それでもなお、私は創作の世界にこもると仲間内にしか通じない単語で連帯感を醸し出していたころを懐かしむような文章を書いてしまう。

なお、冒頭の小説は以下、びねつさんの合同誌に載る予定。COMITIA141、9/4開催とのこと。

私はこういうイベントに行ったことが無い。おそらく上記のイベントにも行かない…と思う。多分。子供が新型コロナを恐れているので配慮している。行きたい気持ちはあるけどね。

展示会の企業ブースみたいなやつは何度か出典したことがある。看板やポスターを作って来場者に説明して、面白い経験だった。最近はやっていないが、またやってみたいと思う。

次は自分の本で出してみたいと思う。

病みすぎ問題

Twitterで見てるとあらゆる人が病んでる。プログラマ、SE、アニメーター、イラストレーター、などなどなどなど。病み過ぎじゃない?

まあ私も病むタイプと思われてるのかもしれないけど、私に関してはそこまでヤバいところまで行かない。気分がめっちゃ落ち込んでも死のうとは思わない。世界が、世間がクソだな、すなわち人間がクソだな、とは思うものの、だからといって死のうとは思わないし、具体的な誰かを槍玉に上げてこいつはクソだ、とは言わないと思う。いや、プーチン大統領がカスでクソだな、とは言ったかもしれない。公人に対する批判ということで許してくれたまえ。

ちょい前にもう世界がだいぶうんざりしたことがあって「仕事1ヶ月くらい休んでも良いですよ」と言われたけれど(その節はありがとうございました)、個人的には仕事休むほどでもないなと思い、休まず普通に仕事をしていた(仕事しててもパフォーマンスは低いんだよ、と思われてたらすみません)。ただ、件のTwitterのお友達などはマジで死ぬんじゃない?みたいな人が多くて気にかかる。

私がずっと一方的に観察しているアニメーターさんのアカウントがあり、私はよくわからんけど有名なアニメの作画監督をされているっぽい。プロフには実名も記載されている。私はそのアニメも知らんし作画監督がどんな仕事なのかも殆ど知らない。フォローしている理由はとにかく絵が上手いから。何度かここにも書いたが、イラストレーターはみんな絵が上手い。めちゃくちゃ上手い。漫画家よりもイラストレーターよりも圧倒的に絵が上手い。いや、漫画家とかイラストレーターとかひとくくりに括ってるけど色んな人が居るでしょ、って反論されそうだけど、私が思うにひとくくりに言っていいほどに絵が上手いのはアニメーターだと思う。

そんな人でも日々、死にたい、どうやって死のうか考えてる、人に迷惑をかけて申し訳ない、などと言っている。マジで?自分にそれだけの画力と有名アニメの作画監督であるという肩書があるならめっちゃイケイケで威張り散らすけどな、人生何が不満なんだろ、と単純に疑問に思う。しかもその人に関しては実名を出していて、おそらくちょっと調べれば職場も経歴も出てくるのだと思う。その状態でカジュアルに死にたいと連呼するとか、精神が弱いのか強いのかよくわからんな、と正直思う。

一つ面白いなと思ったのは、その人に限った話ではないが、どうもアニメーターの方々は「絵の上手さ」を競ってる節があるということなんですよね。ここで言う絵の上手さというのは非常に限定的なものさしであって、それは人体を解剖学的に正確に描く技量を持ちつつ、それをデフォルメして今風なアニメの作風に落とし込むところ、という非常に狭い範囲のスキルを指しているっぽい。もちろん彼らもわかってそれを言っているのだと思うのだけど、時にその物言いは攻撃的であって、もしかして人間の価値を測るものさしをそれにしてません?ってちょっと言いたくなってくる。

でもまあ、私もプログラミングの世界では英語だからとドキュメントを読むのを面倒臭がっていつまでも30年前の手続き的コードスタイルで しか 書けないのならコード書くのやめろ…と言ったことは無いけれども態度には出てるかもしれないので、第三者から見ると似たようなものなのかもしれない。

私なぞはあれだけ絵が上手いのだったら自分の好きなものを自由に描けて楽しいだろうなと思うが、しかし彼らが言っているのは某のキャラクターをどれだけ上手く描けるかとか同業者の某の作画が神がかっているとかそういう感じであって、やはり絵を上手く描く、というのが重要な価値観の一つになっているように私からは見える。絵描きが仕事なのだからそれは正しいと言えば正しい。ITの世界に置き換えてみれば、プログラミングそのものに長けた人間が居たとして、それはスペシャリストだからよしとするのか、ビジネスを知らず顧客の意図を汲めないのなら話にならない、と思うのか。そのあたりはやはり人それぞれ、立場や経験によって答える回答が異なるのだろうか。

ちょっと話がそれてきたけど元に戻す。まあ、こういう死にてぇな〜とか言っている人が出てきた時に安易に「死にたいなと思った時に、まず『生きる』に舵を切ることが肝心だ」とか両津勘吉が言ってるこちら葛飾区亀有公園前派出所の1ページを貼って(引用要件を満たしていないがために著作物の複製にあたる。著作権の侵害)何か良いことを語った気になってる頭の悪い方々が集積しているのがTwitterではありますが、Twitterが、っていうか、おそらく世間の平均ってそんなもんなんじゃねぇかな、って思ってます。

では自分はどうか?自分は正直に言えばこちら葛飾区亀有公園前派出所の1ページを貼って何か自分で語った気になっている人間よりはちょっと賢こくてマシな人間である、を自負しています。なので私は「死にてぇな〜」とカジュアルに言っている(実はマジマジのマジで明日死んでるかも知らん、死んでても私の責任ではないので知らんけど)人に対してどう言うのが誠実な態度だと言えるでしょうか?その賢いオツムから導き出した適切な態度、行動とは何でしょうか?ただし当該「死にてぇな」という人は一回も会ったことがなく、単にTwitterでフォローしているだけ、なんならリプライを送りあったこともない、ぢっと良いねを押す、という程度の関係であるとす。

これマジマジのマジで考えてるんですけど答えは出てこないんですよね。ああいう精神状態だと大して付き合いも深くない、会ったこともない人間が何を言ったところで耳に入らないと思うし、なんなら優しい声をかけたら八つ当たりして気分を害する可能性もある。そんな感じで生き死にが一応かかってる状況において自分の気分が害されるか否かを考えるあたりで本当に助けたいとは思っていないのだろうし、放っておいてマジマジのマジで死なれたらそれは気分が悪いなと思うから一応頑張ったよね、という体裁だけ自分の中で整えたいなという、完全に自分の中のお気持ちの問題になってくるとも思うんですよね。

そしたらさらに面倒くさい話になるわけで、声をかけたら最後、死にたい彼・彼女を助けるまで観察してないといけなくなるんですよ。中途半端に声をかけた後に死んじゃったら、何も声をかけないよりも気分が悪いからね。そういう事を考えると、こう、世間よりもちょっと賢いを自負している私は人々によって親しみやすいカルチャー、例えば「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の両津勘吉が「死にたいなと思った時に、まず『生きる』に舵を切ることが肝心だ。それからどう生きるかを考えたらいい」ということを語っている画像を貼って(引用要件を満たしていないがために著作物の複製にあたる。著作権の侵害)お茶を濁し、ギリギリ「何か声をかけた、行動を起こさなかったわけじゃない」と「彼は死んだが私は感知してない。思い返せばこち亀の画像は貼ったかも知らんけど」という微妙な境界部分に自分をおいて自ら噴出する気持ち悪さをごまかすことが最善かもしれない、と思うのです。

以上は一回も会ったことの無い人にたいしてはそう、という思考実験の一つですが、会ったことのある人がマジマジのマジ死にたいとか言い出したら私なら実際にまた会いに行って何か援助したいと思うな、多分。やっぱり人間って実際に会うとまた特別な感じになってきますね。相手の物理的な顔、体を見ることによってその人の存在が実在するものとして脳内にはっきり刻み込まれ、それはネット上でしか見たことの無い人とは決定的に印象が違ってくる気がします。なんでそう思うんだろう。「会ったことが無いけどネット上でよく会話をしている人」と「実際に会ったことがあるけれども最近はほとんど会話しない人」が居たら、圧倒的に後者のほうに、なんかこう、「重み」みたいなものを感ずる。

この記事をお読みの方でマジマジのマジで死のうとしている人がいらっしゃった場合のためにマジマジのマジのアドバイスをすると、インターネット上のお友達というのはそもそもここまで書いたように無責任なんですよ。だって赤の他人なんだから。顔も見たこと無い人に何かしらの責任を感じつつ誠実な発言するという人はまあ居ないと考えたほうがよろしいでしょう。インターネットなんて無くても一応生活は出来るので、調子が良くなるまではインターネットをまず止めましょう。特にSNS。SNSなんて人を苛つかせる言葉が至るところにありますからね。1mおきに犬のうんこが落ちている歩道を10kmも歩くような行為は止めましょう。

インターネットを断った上で適切な精神科にかかり適切な薬を飲み適切な休息を取りましょう。この薬はどういう薬なのかな?とググりたくなるかもしれませんがそれも止めましょう。どうせ「この薬はとても危険!先進国で処方しているのは日本だけ。薬漬けにして製薬会社が儲けるのが目的」という陰謀論が出てくるだけです。あなたの健康に一定程度の責任を負ってくれるのは医師です。医師は病気を直すのが職業であって、診察してくれる医師はみんな仕事をしているからです。職務上の範囲で限定される責任ではありますが少なくとも精神状態を改善させる方法を知っていて適切た対処ができる身近な人が精神科の医師です。医師の言うことをよく聞いて休んで薬を飲めばよろしいですね。

もし精神科にかかりたいが予約で一杯でどこも初診は2ヶ月後とかになってしまう、という状況だったならばお住まいの地域の保健所に相談すればすぐにかかれる病院を紹介してもらえる可能性があるので、そういうのもご検討ください。

もちろん、医師以外にも頼れる人が居たら頼るのは良いと思います。しかしその時もネット上でしか知らないお友達は前述の通り何か責任を取ってくれるような感じでもないので、できれば実際に会ったことのあるお友達に優先的に助けを求めるのが良い、というような気がするな。個人的には。