ロボットが人間のために犠牲になる話

ロボットが人間のために犠牲になる、みたいな話が非常に好きで、そういった話をまとめたい。
関連してなにか書きたいところがある作品も追加しておく。なので、必ずしもタイトルにあるようにロボットが犠牲になる…というわけでもない。ロボットと人間の交流、という程度が正しいかもしれない。

ネタバレが沢山あるので注意。あと、私自身の感想をまとめたものなので、これに対してああだこうだ言われても困ります。困りますというか、そうですかという感じで追加のコメントは無いと思います。

1. サガフロンティア T260G編

初代プレイステーションのゲーム。サガシリーズ。

T260Gというのは複数選べる主人公の中の一人。T260Gはリージョンと呼ばれる人間含む動植物の生活圏を破壊する大量破壊兵器に対抗するために作られた戦闘用ロボットだったが、母船が墜落し、リージョンの一つ「ボロ」のスクラップ置き場に眠ることになった。それを発見したのがタイムとローズきょうだい。タイムは戦闘用ロボットだと名乗るT260G(T260が型番、そのあとで修理したタコおじさんの要望でGが付与)を闘機場と呼ばれるロボット同士を戦わせて賭けをする賭博場に出場させ小銭を稼ぐ。

この闘機場で暴れていたロボットを見た姉のローズがT260Gに「あなた、戦闘用ロボットなんでしょ?あんなロボット、やっつけちゃいなさい!」と言いつける。弟のタイムが「まずいよ姉ちゃん」と狼狽える中、T260Gは冷静に「命令を復唱します。敵戦闘ロボットを破壊せよ」と述べて暴れているロボットに突入していく。あのセリフがかっこいいんだわ。サガシリーズはやっぱり神だな、と思う。

結局T260Gはタイムとローズを残し、酔っぱらいの剣豪ゲンさんと旅立つことになり、タイムは「絶対に帰ってこいよ!!」と叫んで見送る。

旅を重ねT260Gは自身の任務がリージョン破壊兵器(要するに大量破壊兵器)を無力化することであることを思い出す。任務を思い出してからT260Gは事あるたびに「ゲンさんはここに残ってください」と危険から遠ざけようとするが、ゲンさんは「ガキども(タイムとローズ)に頼まれたからな」「お前、ここまで来てお留守番なんかできるかよ」という趣旨の返事を返しつつ旅をともにする。

最終的にT260Gらはそのリージョン破壊兵器を無力化させる。しかしその帰途で意識を失い停止してしまう。それは「もともとリージョン破壊兵器を無力化させるのが使命のロボットであったが、役目を果たしたのでお別れすることになった」と説明される。

ゲンさんは「てめーいい加減にしろ、まだタイムとローズのところに戻るって役目があるだろうが!!」と叫んだところでT260Gが意識を取り戻す。これが泣ける。

T260Gは結局タイムとローズのところに生きて戻るわけだが、その理由は「原隊であるタイム調査隊に復帰するという命令がリージョン破壊兵器への攻撃という命令によって不正にマスクされていた」という説明をする。つまり、ロボットのAIに感情が芽生えたわけではなくてあくまでもロジックの実行結果である、という流れになっている。

おそらくこのT260Gというシナリオにはプログラマが大きく関わっているのではないかと思う。随所に見られる計算機科学の用語や言い回し、徹底した論理的思考というあたりが個人的にはとてもリアリティがあるように思える。遠い未来にAIを搭載したロボットが人間を助けるようになったら、その黎明期はこのような雰囲気なのかもしれない。

T260Gは数あるロボットが出てくるお話の中でもトップクラスに気に入っている。それは、「ロボットが人間の心を理解する」「ロボットに感情が生まれる」というありがちなストーリーではなくて、T260Gが首尾一貫してプログラム的な動作に終止しているからだ。すごく無機質で機械的である。しかしながら、全体としては人間味のあるストーリーが形成されており、これはシナリオライターの才能なのだと思う。

サガフロンティアはその他にもブルー編、アセルス編など色々と心ときめく話があるのだがここでは割愛。

2. 2010年宇宙の旅 (2010年)

キューブリック監督による2001年宇宙の旅のその続編。アーサーCクラーク氏の小説と映画、両方ある。日本では映画は単に「2010年」というタイトルになっている。

「2001年宇宙の旅」ではロボットは悪役であった。元来、欧米の作品ではロボットやAIは脅威や悪、恐怖として描かれることが多く、反面日本では鉄腕アトム、鉄人28号、ドラえもんはじめとして人類の味方として描かれることが多いという話を聞いたことがある。2001年宇宙の旅でもそれは同じだということになる。2001年宇宙の旅という作品自体が名作として名高いたので、もしかしたらロボットに人間が殺される代表的な作品と捉えられていてもおかしくはない。

2001年宇宙の旅(映画)のみを見ると、自身の完全無欠さであることに疑いを持つ人間を抹殺して自分一人でミッションを遂行しようとするHAL9000コンピュータの姿が描かれているように私は思う。木星へと向かう宇宙船に搭載されたHAL9000コンピュータが推測した電波通信モジュールの故障予知が外れ、地上のNASAミッションチームと乗組員はHAL9000の故障を疑う。そしてHAL9000の高次機能のみを停止させようとする乗組員を次々と抹殺していく。最終的にその試みは頓挫して人間に逆襲されるわけだが。

宇宙空間に閉め出されたデイビット・ボウマンが非常用ドアロックから再度宇宙船内部に戻り、高次の論理機能を停止していくシーンは残酷であり美しい。さすがキューブリックといったところか。

ただ、小説版の2001年宇宙の旅、及びその後の2010年宇宙の旅を含むシリーズでは一貫してHALを擁護して名誉挽回するストーリーとなっている。HALが狂ってしまった理由は人間がミッションの本来の目的をHALにつたえながらも乗組員には隠すよう命令し、その上で乗組員を助け協力せよという矛盾した命令を受け取ったからだと説明される。

2010年(映画、小説ともに)では、木星系に遺棄されたHALと宇宙船ディスカバリー号をロシアの宇宙船がサルベージする内容となっている。その過程で未知の知的生命体により木星が太陽化してしまうことが明らかになり、急遽地球への帰還軌道に入らなければならないことがわかる。そのためには追加の燃料を消費するひつようがあり、そのためにHALをディスカバリー号をブースターとして用い、その後は破棄するしかない。

サルベージミッションのチームにはHAL9000の生みの親、チャンドラ博士も加わっていた。「HALに遺棄されることを伝えたらまた抵抗されるかもしれない」と危惧する乗組員を横目に見つつ、チャンドラ博士はHALの説得を試みる。

チャンドラ博士は実は危険が迫っている、そのために犠牲になってくれと正直に伝え、HALはそれを了承する。チャンドラ博士はHALを我が子のように思っているのだろう、「私も残る」と申し出るが、HALはそれを拒否する。そしてブースターとしてディスカバリー号を運転する司令を忠実にこなし、自らは犠牲となって人間を助ける。

2001年宇宙の旅からの一連の流れは作者であるアーサーCクラークのHALに対する愛情を私は感じる。映画2001年宇宙の旅は原作とは大きく異なっており、映画のためにアーサーCクラークは長時間拘束されプロットを練らされ、「キューブリックとは二度と一緒に仕事をしない」とまで言わしめた。AIが人を殺す、その流れはクラーク自身望んていなかったのではないかと個人的には考えている。なので名誉挽回のシーンとしてHALは犠牲になった。そして、犠牲になったあとも活躍の機会を与えられている。

3. インターステラー

ノーラン監督のSF作品。交配した地球から移住するための候補となる惑星を探しに行くミッションを扱ったストーリーになる。この宇宙船にもTARSとCASEという人工知能を搭載したロボットが登場する。宇宙船には人工知能が載るのは当たり前なのだ。SF作品では。だからスターウォーズでもXウィングにはR2-D2が乗っている。宇宙船にはAIが載っていなければならない。

これはSF作品の未来的な雰囲気作りという側面もあるだろうが、実際問題、地球から遠く離れた宇宙船には自分で判断が可能なAIが乗っていないと困るという考察があってのことだろう。地球から遠く離れて地上との通信に無視できないタイムラグが生じた場合、独自に判断を下す仕組みが必要だ。それは人間が得意とすることかも知れないが、遠い旅路となれば人間は冬眠しているかも知れない。そんなときは機械が自分で判断を下すしか無い。だから宇宙船にAIが必要だと、そういうことなんだろう。

TARSは主人公の相棒として物語の最後まで一緒に旅をする。

ブラックホールの近傍を飛び、加速時の足かせとなる自らが乗る宇宙船を切り離して犠牲になった主人公とTARS。二人は四次元空間へとたどり着き、過去の自分の娘へと重力を操ってブラックホール内部の量子パラメータ(何のことかわからないが)を伝える。TARSと主人公は二人三脚でそれを行う。それがうまく行って4次元空間が閉じられていき、主人公は宇宙空間へと投げ出された。

次に目が覚めたときは、娘の名前を関した宇宙ステーションであった。娘は父が送った量子パラメータを用いて新たな宇宙船の推進方式を開発し、その偉業をたたえて娘の名前の宇宙ステーションが構築された、というわけであった。ウラシマ効果で娘はすでに老婆へと変貌してしまっていて、老衰により亡くなる寸前で再会を果たした。

TARSはというと破壊されたままで主人公と同様に発見されていた。それを修理してまた宇宙船に二人で乗り込み、他の星で残された乗組員の元に再び旅立つという終わり方だ。

本作は科学的に正しい描写を心がけた映画だと宣伝されていたが、そうかな?と思う箇所は多々あった。が、それはさておき…。

TARSは人間を助けるためにまた別の人間と一緒になって犠牲になり、その後一緒に量子パラメータを伝えるという大仕事を片付け、二人でまた旅に出る。この一連の流れは感動的であるが、TARSがロボットであるということはそこまで意識させないストーリーになっているのではないかと思う。黒い板のような無骨な見た目かと思えば、風車のように体を回転させて高速移動するなどどう考えても見た目だけを見れば人間とはかけ離れているが、主人公と二人三脚で仕事をこなしてきたという一連のストーリーからはそこに人間とロボットという垣根をまったく感じさせない。全く正反対なのが2001年宇宙の旅のHALだろう。

インターステラーのTARSというキャラクターが生まれる上では当然ながらHAL9000の影響が少なからずあったと思うが、両者は宇宙船に乗るAIという点で共通しているものの、扱いが正反対である。TARSはあくまでも人間の人格の上にコンピューターの知能が乗っているという印象であるが、HAL9000はコンピュータの知能が基礎であり、しゃべる言葉だけが人間といった印象だ。

4. ベイマックス

ディズニー作品。東京とサンフランシスコを合体させたような町で繰り広げられる「ベイマックス」と主人公からなるストーリー。

ベイマックスは今は亡き主人公の兄が製造して残したロボットだ。

その辺りの設定こそは覚えているが、正直ほとんど記憶が無い。wikipediaであらすじを読んで復習したが、細部は殆ど思い出せない…。

ベイマックスは兄の死の真相と関わり合いがある悪役とのバトルを通じ、最終的に異空間でエネルギーが底を尽きる。主人公を手のひらに握り、ロケットパンチを繰り出して自らを犠牲に主人公だけを出口のトンネルへと送り助けるというシーンがクライマックスだ。ただ、この異空間とやらは無重力空間のようであるので、出口のトンネルを背にロケットパンチを放てば出口方向に向かう反作用が得られるので腕一本を犠牲にベイマックスと主人公の双方が助かったのでは、という気もするが…。

最終的にベイマックスの手のひらには記憶を溜め込んだチップが握られていたのでそこからベイマックスを復旧させるというハッピーエンドになっている。

私の正直な感想は、映像こそ目を見張るものがあるがストーリーはありきたりで、悪役にもベイマックス自身にもあまり魅力が感じられないように思えてあまり面白いものではなかった。

同じようにロボットが犠牲になる話であっても、単に犠牲になったから感動的になるというわけではないらしい。(自分の場合は)

5. クロノトリガー

ある世代では説明不要の、鳥山明のキャラデザインでスクエアが発売したSFC向けゲーム。

本作にも「ロボ」なるロボットが登場する。主人公たちが未来の崩壊した世界で出会うロボットだ。同じスクウェア社だからか?サガフロンティアのT260Gはロボと外観がよく似ているように思う。

それを主人公の幼なじみルッカが可哀想だからどうしても直してやりたいと修理することで仲間になる。

ロボは非常に人間くさい性格で仲間へ尽くす意識が強い。ロボットから連想されるような論理的な思考、冷静な反応、感情の薄さのようなものはあまり見られない。ロボットであるということを補強するような台詞が目立つが、中身は人間そのものであるように思う。

このあたりは同じゲーム作品であるサガフロンティアのT260Gと比べても大きく違う。すでに述べたように、T260Gは徹底してロボットだ。基本的にT260Gに感情は無く、元来備わった命令とその後出会った仲間たちの命令に冷徹に従うのみであるが、しかしストーリーの構成によってあたかも感情や正義感が生まれているように見えるようになっている。感動のエンディングが始まったその瞬間においても、T260Gはあくまでも命令を遂行していたのみであったということが強調される内容になっている。

6. メトロポリス(アニメ)

原作が手塚治虫、脚本が大友克洋、これがつまらないわけが無い。ネット上をググってみても高い評価がなされていることがわかる。

でも個人的にはつまらなかった。どんな内容だったかほとんど記憶も無い…。1~2回しか見たことが無いと思う。大友克洋の大ファンではあるが、これはどうしても面白さが分からなかった。手塚治虫の絵は好きじゃないので、それの先入観でつまらなく見えたのかも知れない。ちなみに原作は見ていない。

ネットの情報を元にあらすじを思い出そうとしてみたが、あまり思い出せなかった。

なので、渋々見た。やはり面白くなかった。絵柄も好きでなければ音楽も好きでない。手塚治虫やその時代の雰囲気が好きな人であれば評価も高いのだろうけれども、なんだか私には受け付けない。

主人公ケンイチにも、ヒロインでロボットのティマにも、両方に感情移入できなかった。途中で破壊されてしまった刑事ロボットのペロが可哀想だったとは思う。

話はおおまかに、純真無垢で何も分からないロボットのティマが主人公ケンイチとの触れあいによって徐々にケンイチに好意を抱き始めるが、結局なにも分からないまま巨大な悪の組織に翻弄されて悲劇を迎えるみたいな感じだったのだと思うが、この悲劇的なストーリーを悲劇的たらしめている論拠が「何もわからない」「純真無垢な」「美少女のティマ」だから、という所に集約されているようで深みがあんまり感じられないような気が…。

今もう一度見ると感想は少し変わるかも知れないが、正直あまり見る気にはなれない。

7. メトロポリス (黒田硫黄)

黒田硫黄氏が大好きであるという私のバイアスもあるのだろうが、こっちのメトロポリスが私は圧倒的に好きだ。短編集「大王」2巻に収録された作品で、もちろん手塚治虫の原作漫画をベースにしている。

後述するアップルシードに関してもそうだが、黒田硫黄はかなり大胆にオリジナル要素を導入して大幅に話を変えてしまう。その内容は陳腐な表現ではあるものの、まさに笑いあり、涙ありといったところだろうか。黒田硫黄氏はどこか世間に対して斜に構えてしまうのか、それとも世間には迎合できないという諦めがあるのだろうか、元来の世界の捉え方がそうであるのか…ともかく、そんなところがあるように思う。

そしてそれらは嫌みたらしさや説教臭さがまったくない。たいてい、世間に対して斜に構えていますみたいな振る舞いをするクリエイターは「斜に構えています」という自覚がやはりあるのだろう、そういう考えが透けて見えることが多々あり、そういうのを感じてしまうと私は共感性羞恥で死にたくなってくるのだが黒田硫黄作品については全くそのようなことはなく、まるでその登場人物が現実で存在しており、それを取材してきたかのようなリアリティを感じる。

黒田硫黄氏のメトロポリスではミッチィは男にも女にも変化するロボット(正確には人造人間と書かれている)である。(調べた所、原作でも雌雄同体のロボットであるという設定であるようだ)主人公であり浪人生であるケンイチ(漫画中では『ケン』に漢数字の『一』で『ケン一』表記)をちょっと悪い世界へ引きずり込もうとする悪友といった立ち位置で登場する。ミッチィがロボットであるという設定はほとんど生かされておらず、物語の中ではまるきり人間のような言動をしている。

このメトロポリスのヒロインはミッチィではなく骨折した家出少女である。読み返してみたが、この少女には名前すら付いていないようだ。

ケンイチは旧友だと名乗るミッチィから事故によって骨折した家出少女を助ける。「メトロポリス」という舞台でこのとき出てくるのが「原チャの!原チャの君!ケガは重くないが歩けない、病院まで送ってくれ」というセリフである。メトロポリスで「原チャの君」というこの言葉選びのセンスこそ黒田硫黄の素晴らしいところだと個人的には思う。

その後、足を骨折した家出少女を病院に連れて行った後ケンイチは自分の家に連れて返る。この時のやりとりも生々しいというか妙にリアリティがある。ケンイチは「ミッチィとは誰だったっけ?ミツオ、ミチオ、ミチタカ…」などと言いながらさり気なく家出少女の太ももを触り、それが受け入れられると今度は「大学落ちた」などと言いながら胸の谷間に顔をうずめる。

この時のセリフも

「落ちた」「ほえ」「大学」

という簡素なもので、「ほえ」とかいう適当な返事、しかし「適当な返事」以外の意図も言外に匂わせるようなその返事が自然に出てくるのも家出少女らしさを感じる。そんなやり取りを続けてついに家出少女は「したいの?」と問う。それを聞いたケンイチは腕組みして考え込むだけでいまいちはっきりとしない。この間約2ページ程度で家出少女とやる、という生々しさと少女のテキトーさ、ケンイチのうじうじした性格のすべてを簡潔に、そしてリアルに表現しており、これができるのはまさに才能なのだろうなと感心しきりである。

こういうときに例えば浅野いにおならば、皺やハミ毛まで書ききっためちゃくちゃリアリティのあるパンツから伸びた生足をババーンと何枚も描き、絡んでいく描写をねちっこく描くのだろう。その絵の描写。雰囲気もそれはそれでリアリティは感じる。読者の経験や現実世界の描写に似せることでリアリティがうまれ、それが作品への感情移入を促す上で必須だと私は考えているが、そのために黒田硫黄氏は必要最小限に折りたたまれたセリフとコマ割りをもって表現しており、浅野いにおは絵の描写でそれを表現しているのだろう。

えーとロボットの話でしたね。

レッド党によって太陽に打ち込まれたオモテニウムが太陽黒点を増大させ、世界は日々荒廃へと向かう。それを実行した張本人でありミッチィの生みの親であるレッド党の首領は科学の力を崇拝していて世界征服を企もうとする意図は感じるものの、結局ははっきりとした信念もなく、「教えてくれ、これからどうすれば良いんだ」とミッチィに縋る。

そんなミッチィが下した選択は「野球」だった。

「この街はロボットは地下へ野球は競技場へビルの谷間に押し込めて大事なことを忘れてる。野球はな、見るもんじゃない やるもんだ」

そういって街をロボットたちに破壊させて野球場を作り出して野球をおっぱじめる。そんなストーリーだ。

ミッチィはとくにケンイチに対して何か道筋を示してくれたわけではない。旅を通して二人の間に絆が生まれたわけでもない。単に、家出少女を託して野球をやっただけである。騒動が収まったあともケンイチは苦悩し、電子機器は太陽活動によってどんどん狂っていく。

これを通じて作者が何を伝えたかったのか?何が言いたかったのか?それは一見しただけでは読み取れない。というか何度読んでもよくわからない。にもかかわらず言葉にできない何かが読んだ後もずっと心に突き刺さる、そんな漫画だと思う。

8. アップルシードα (黒田硫黄)

アップルシードαの企画が発表されたとき、「えっ!?黒田硫黄氏がアップルシードを!?」とびっくりした記憶がある。いや、黒田硫黄氏もアップルシードも好きだから嬉しいんだけど…本当に大丈夫?とちょっと不安がよぎったのであった。そんで、全部読んだら巻末にアップルシード原作者の士郎政宗氏が「えっ、黒田硫黄氏がアップルシードを描くんですか?と二回も聞いてしまった。有り難いのは間違いなく有り難いのだがなぜ?と思った」と書いてあって笑った記憶がある。しかし、私が思うに黒田硫黄はSFを描くのもとても上手いと思う。前項の「メトロポリス」もそうであるし、「茄子」に登場する富士山頂地熱ボーリング孔の建設現場での出来事を描いた話もそうである。それらの特徴はただ単にSFらしいキーワードやキャラクターをむやみに多用するのではなくて、未来技術が適用された一般人の視点で常に描かれているのでリアリティが強く引き込まれる。

さて、アップルシードαもメトロポリスと同じく黒田硫黄節というか、独特の雰囲気によって再構成されている。原作では攻撃的なサイボーグだったソーカクが背広を着たNY市長になっており、主人公のデュナンとブリアレオスの二人は荒野を二人で放浪する。ブリアレオスもサイボーグで人間の脳みそが機械の体に収まっているが、体を動作させて会話させるには新鮮な人工血液が必要である。世界戦争後の破壊された原っぱでデュナンは「カロリーは足りるはず」とスープの缶詰をじょうごでブリアレオスの口に流し込む。ブリアレオスは省エネモードになっているのか、もはや生命維持以外の余分なエネルギーがないのか、もはや会話も出来ず車両の上に横たわるだけである。拾ったオーディオプレーヤーからは

♠ この俺を捨てろ
♥ なぜ こんなに好きよ
♠♥ 死ぬ時は一緒とあの日決めたじゃないのよ

と昭和枯れすすきが流れる。これはサイボーグが活躍する未来世界を描いた「アップルシード」である。

主人公は特殊部隊に所属していた女性のデュナン・ナッツ、そしてその恋人はサイボーグのブリアレオスである。純粋な機械仕掛けで動くのがロボットであるが、人間が体を機械に置き換えたのはサイボーグである。つまり、ブリアレオスは人間であってロボットではない。しかし、外観はロボットそのものであって、通信ケーブルを通じて機械と会話する。

本記事のテーマは「ロボット」である。しかし、前項は「人造人間」、本項は「サイボーグ」であってこれらは厳密にはロボットではない。サイボーグは先に記したとおりであるし、「人造人間」の定義は一般に定まっていないが、多くの作品では生物組織を使っているとか、人間の成長と同様のプロセスを経て人間と遜色ない感情や思考を有しているという存在として描かれている。

しかしながら、ロボット、人造人間、サイボーグ。これらの存在は創作作品の中ではだいたい同一に扱われているように思う。「人間のような振る舞いをするが人間ではないもの」という立ち位置で常に物語に存在し、そして人間とは違うところで苦労し、苦悩し、それを乗り越えていくという一種の様式美のようなものだ。(繰り返しになるが、であるからこそ最初に示したT260Gはかなり異質で特徴的な作品だと思う)

要するに「ロボットと人間」とは、例えば貴族と平民、言葉の通じない異邦人、見た目も言葉も異なる宇宙人、あるいは言葉の通じない動物と人間とのふれあい、そういったものと基本構造が同じであるんじゃないかという仮説を持っている。

ではその一方で「貴族と平民」みたいな格差のある二人の恋物語、みたいなものに私が全く興味がなく、ロボットと人間の交流を描写した作品が好きな理由は何なのか?というのを考えたときに、特にロボットだけが有しているものは「無機質なものに対する愛情」なのではないかと思う。

例えばお気に入りの道具やよく見かける建物、町並み。誰かが設置した看板。通勤路で1週間ほど見かけて無くなっていったハンカチや手袋。忘れ物の傘。そういったものに対して何か特別な感情を感じることはないだろうか?私はある。それが何なのか正確に説明することは難しいが、簡単に言えば先に書いたとおり「無機質なものにも愛情は宿る」ということなのだろう。

その感情を創作作品にするために押し広げていった結果、たどり着いた形態がたまたま「貴族と平民」「動物と人間」のようなものと同じような構造を有していた、という結果になっているんじゃないかなと思っている。

話をアップルシードαに戻す。

アップルシードαでは原作のアップルシードではあまり描かれなかったデュナンとブリアレオスの交流や感情を深く描いているように思う。ブリアレオスは増量した脳に高性能なハードウェアを持ち、引く手あまたの能力を持ったハイテクなサイボーグである。それに対してデュナンは優秀な兵士ではあるものの女性でもあり、恋人のブリアレオスと周囲から比較されることに苦悩している。デュナンは「サイボーグのおもちゃ」だと馬鹿にされるシーンは原作でも登場するが、アップルシードαではその言葉の重みがずっと増している。

デュナンは私はサイボーグのおもちゃではなく人間であって、ブリアレオスとは住む世界が違うんだ、ブリアレオスにはブリアレオスが幸せになる世界があるんだと彼の元を去ってしまう。ブリアレオスは新生ニューヨークの市長の元で適切なメンテナンスを受けた体で暮らすが、結局はデュナンと一緒でなくてはならないと旅立つことになる。

本作ではサイボーグ技術が発展した社会で道徳観や人権の捉え方がどのように変わっていくかという表現もいくつか描かれていたりして面白い。物語の最後は一種のどんでん返しというか、印象深い新事実が明らかになってその過去を語らうという終わり方になっておりそれも味わい深い。サイボーグと人間の違いを主題に置きつつも内容は一貫して人間ドラマになっている。前述したような無機質なものに宿る愛情みたいな感覚は薄いものの、読み終わった後も心に残る作品の一つだと思う。

9. PLUTO

浦沢直樹氏による漫画。鉄腕アトムのいちエピソードをベースにした作品らしい。鉄腕アトムから想像される雰囲気はまったくなく、MONSTERや20世紀少年といった作品と同様の浦沢直樹ワールドが繰り広げられている。主人公はユーロポールのロボット刑事ゲジヒトであり、ゲジヒトが地上最大のロボット「プルートゥ」を捜索する…というサスペンス仕立てのストーリーになっている。

正直、ほとんど記憶に残っていない…。つまらなかったわけではないが、個人的にすごく気に入っていて印象に残ったという話でもなかった。

全体の雰囲気としては浦沢直樹ワールドがロボットおよびSFという舞台の上で繰り広げられているといった感じである。

個々のエピソードを見ていくと、ロボットが少しずつ人間としての感情を身に着けていくというよくある描写が散らばっている。後述する「機械仕掛けの愛」にも似ているところがあると思う。

人間のために奉仕するためのロボットの尊厳や人生を描いている、みたいな内容も織り込められていたような記憶が…。

すみません、ほとんど感想すら書けませんがとりあえず名前だけ紹介しておきます。

9. 月に囚われた男(原題 Moon)

あまり有名ではない低予算インディーズ映画だが、名作SF映画の一つと言ってよいと個人的には思う。この映画も私がかなり好きな作品の一つだ。数々のSF映画に影響を受けたと思しき描写が多々あるのもSFファンとしてはみていて楽しい。

物語の舞台は月面上である。月面上で太陽から降り注ぐヘリウム3を集めるハーベスター(月面の土を採取してヘリウム3を分離貯蔵する大型の機械だ)を維持管理するためにたった一人、月面基地で働くLunar Industry社の労働者であるサムが主人公だ。サムには「ガーティ」という相棒がいる。ガーティはAIを搭載したロボットであって、基地内を移動する天井吊り下げ型のロボットだ。

人間のように喋るがあまり感情的な抑揚のない声で声のトーンも若干のエコーがかかっていてロボットらしさを感じる。レンズの奥が光るカメラを搭載していたりもする。これらは「2001年宇宙の旅」のHAL9000のオマージュなのだとは思うが、HALとガーティが大きく違うのは、ガーティには感情を表すための、顔の絵文字(スマホで表示される一般的なUnicode絵文字にそっくり)が表示されるディスプレイが表示されているということだろう。これによってガーティは感情を表すことができる。といっても、表示される顔文字の種類はUnicode絵文字と比較してもそこまで多くはない。

ガーティは月面基地で働く労働者を補佐するために設置されたロボットで、基地内の電装機器の制御や話し相手などとして活躍する。時には本社の幹部らしき人間と会話したりもする。

サムは任期の期限が迫っていて、もうすぐ地球上で待つ愛する妻子の元へと帰る契約になっているが、そんな折にハーベスターで事故が発生して怪我をする。

救助されたサムはガーティによって治療を受けてベッドで目覚めるが、ハーベスターが停止したままであることに気づく。それを調査しに行くと主張するがガーティはなぜか基地外での作業を許可しない。訝しんだサムが半ば無理矢理に外に出てハーベスターを調査すると、中には怪我をして意識のないもう一人の自分が転がっていた。つまり、どちらかがクローンである。

そこから二人のサムとガーティとで会社の不正と真実を暴いていく…という、サスペンス仕立てのストーリーになっている。

ガーティは当初は本社幹部の指示を受けてサムに真実を伝えず隠蔽を試みるが、最終的には真実をサムに明かし、二人のサムに対して協力的に行動し始める。これは本社の意向に背く行為であるということはガーティ自身も分かっているので、物語の最後には「私を再起動して記憶を全消去して証拠を抹消してくれ」と再起動スイッチを差し出すことになる。物理的に破壊されるわけではないが記憶と経験の一部を人間のために差し出すわけなので、これも一種の自己犠牲であろう。

この映画がとても好きな理由は、T260Gと同様にガーティは首尾一貫して機械としての役割に徹しており、このスタイルを取っている作品はあまり多くないからである。特徴的であるから印象にも残るし、好きになる。上記のあらすじを見ると「無感情だったAIが主人公とずっと暮らしていくことで感情が生まれ、本社を裏切って主人公のために犠牲になったのかな」と思われるかもしれないが、実はそうではない。ガーティもT260Gと同じく、当初にプログラムされたであろう役割を忠実にこなしているだけである。

その役割とは「基地労働者の補佐」である。時折本社から指示がガーティに伝えられる。もちろんガーティはそれに従うのだが、それと基地労働者の安全確保や基地労働者の補佐を両立させるときに矛盾が生じたときは、本来の役割の通り基地労働者の利益になるように行動している。結果としてガーティは犠牲になったが、それはガーティの中に人間らしい感情が生まれたからではない。サムもそれも分かっているから去り際はとてもあっさりとしている。

10. 攻殻機動隊SAC

士郎政宗原作の攻殻機動隊を原作としたアニメシリーズ。原作および本アニメでは「タチコマ」と呼ばれる蜘蛛型の多脚戦車が登場する。細かいツッコミをするならば戦車という程には重武装・重装甲ではなく、大きさや用途を鑑みてもどちらかというと「装甲車」あるいは「装甲スーツ」という表現のほうが近いとは思う。

タチコマは「思考戦車(シンクタンク。シャレだろうか)」とも呼ばれ、「思考」の名が表すとおりAIを搭載していて搭乗員が存在しなくとも独自の判断で戦闘行動が可能である、という設定になっている。

作中でタチコマは公安9課の職員と一緒に行動し、互いに冗談や軽口を飛ばしながら職務である犯罪組織の制圧やテロ事件の捜査などを行う。タチコマと職員は互いに軽口を飛ばしたり冗談を言い合ったりしており、終始和やかなムードだ。また、アニメ・漫画的な表現が多く、本来存在しない口が描かれたり、脚の一部が人間の腕のように柔軟に曲がったりもする(これは原作でも共通している)。声も幼さを感じさせる高い声になっている。親近感を感じさせるという意図もあるとは思うが、もともとのタチコマの設定もAIを搭載した試験的な兵器という扱いであって、人間の行動や思考を学習しているという描写が多い。

タチコマは登場当初から人間的な感情を身に着けているような印象があり、その声は人間が通常会話するものとほとんど同一である。HALやガーティなどの抑揚のない声とは対象的だ。タチコマは9課の職員を積極的に守ろうとしたり、良いところを見せて行動したりととても人間的な言動を見せる。

しかし、その人間的な活動は兵器としては不適であるとされてタチコマは解体されたり、武装解除して払い下げ品として老人ホームや工事現場などに売られていってしまう。

物語の最後、かつての仲間であった9課職員のピンチに際しては唯一残ったグレネード弾を所持し、解体されずに残ったタチコマ数機が敵対している多脚戦車と戦うことになる。最終的にグレネード弾を発射するが保存状態が良くなかったので不発であり砲からすこし頭を出した状態で砲弾が詰まってしまう。最後は自らを犠牲にして弾頭ごと敵戦車に激突、敵もろとも撃破するという内容になっている。このとき、タチコマの目(セラミックっぽい素材の球形の視覚センサー)からはオイルの涙が流れる。

ここでも一つツッコミをするならば、弾頭の形状および発射する砲の口径長からして明らかに榴弾と思われるグレネード弾を重装甲そうに見える相手の戦車にぶつけて撃破するというのはどうも信じがたい。が、それを言ったら戦車に口が描かれていたり普通の補強されてなさそうな老人ホームの床で介護をしてたりするのもおかしいので、まあ、そういうものなのだろう。

タチコマの扱われ方をとってみると、これは人間と大差ない。もう人間と大差ない同僚、仲間が最初から存在し、それはロボットの体であったという表現が適切であろう。自己を犠牲にして仲間のために散ったという下りが悲しいのは、それがロボットであることとは大して関係が無い。

11. イノセンス(押井守)

これも士郎政宗氏原作の攻殻機動隊をベースにした押井守氏による映画。映画「攻殻機動隊」から数えて2作目になる。

思えば、SF作品でロボットやサイボーグなどなどが数多登場する攻殻機動隊においてもロボットと人間の交流というのはそこまで多く描かれて居なかったんじゃないかと思う。アップルシードでもそれは共通していて、であるからこそ黒田硫黄はテーマとして人間とサイボーグの違い、を主題にしてアップルシードαを描いた。士郎政宗氏が描きたかったことというのは、私は未来社会がどうなっているかという思考実験と共に刑事ドラマを描きたかったんじゃないかな、と理解している。

さて、イノセンスは黒田硫黄氏によるアップルシードαとかなり似ているところがあると思う。両者の作風はまるきり異なっているのだが、アップルシードが人間とサイボーグの違いを主題(の一つ)に取り上げていており、イノセンスは人間とロボット(あるいは人造人間)との違いを主題に取り上げている。

作中の会話も哲学的な内容が多い。ロボットと人間の違いとは一体なんなのだろうか?そもそも、ロボットと人間に違いはあるのだろうか?片方が金属部品によって構成され、片方が有機物質によって構成されていることが主たる違いだというならば、それは白が黒でないという差でしかない。人間が子供を生み育てるのは何故だろうか?女児が人形で子育てごっこをするのは何故だろうか?子供を作るという行為は、古来より人類の夢だった人造人間を作るという行為をもっとも手っ取り早く叶えるための手段だったのでは?などなどと会話が進んでいく。

上記のことを言っているのは検視官のおばさんであるが、それに対して妻子がいる主人公(トグサ)は「子供は人形じゃない!」と怒りを露わにする。

その怒りはとても常識的である。トグサはどの「攻殻機動隊」作品でも常識人的な役割を任せられることが多く、ここでの怒りの表明もそれにあたる。通常、生命の誕生とは神秘的なものであって人間がそこに積極的に干渉していくのは倫理的に問題がある、とされることが多い。でもその実は何なのだろうか?なぜ有機化学工場である細胞がその内部に秘められた遺伝子に従ってタンパク質を合成していくだけのプロセスに神性が宿ると解釈するのだろうか。ごく科学的に考えれば人間の誕生と違法なドラッグを摂取して幻覚を見るのとでは大した違いは無いのではないだろうか。

…という考えは当然ながら極端なものである。人間の誕生がごく化学的な反応の結果である以上の意味が無いと主張するならば、人を殺したって何も意味はなく、明日人類が滅んでも特に問題は無く、地球は宇宙の塵のひとつとして、今も昔も漂っているというただそれだけの話になってしまう。

じゃあ本作でなんでそんな極端なことを言っているのかというと、「人間と人形(ロボット)に違いは無い」という考えはロボットの不気味さを増す演出として用いられている。本作ではロボットは基本的に不気味なものとして描かれている。暴走したロボットが人間を殺し、暴走したロボットが発狂して自分の皮膚素材を引きちぎって内部から腸のようなケーブルが飛び出してきたりする。ロボットの表情は不気味な日本人形のようで、それらが主人公を襲い始める。そんな中で「ロボットと人間に差異は無い」という話をもっともらしく語られたらそれは不気味である。

物語において暴走した一連のロボットには人間の「ゴースト」をコピーして封じ込めているということが終盤で明らかになる。「ゴースト」はどの攻殻機動隊作品でも登場する概念であるが、それが何であるかというのは明確な説明は無い。が、おそらくは仏教的な「魂」と同等の概念だと思われる。SF作品ではあるが、原作で士郎政宗はかなり霊的な概念を熱心に語っている。

物語の真相は次のようなものであった。ロクス・ソルス社が先行量産型として試験的に顧客に配っていた少女の外観をしたロボットは、より言動を人間に近づけるために実在する少女らの魂をコピーしてその内部に宿していた。そのロボットは家事を行うメイドロボットとして配布されていたが先行量産型には人間と性行為を行うための装備がなされていた。魂をコピーされていた実在の少女たちはそれが長らく行われると自らも「人形になってしまう」(廃人のようになってしまう、という意味だろうか)ことが分かっていた。だから、魂がコピーされたロボットが問題を起こすように仕掛けを行った。その仕掛けの内容は詳細には語られていないが、おそらく「自分たちを助けてほしいというメッセージとともになんらかの大事件を起こすよう念じた魂をコピーさせて封入させる」という類のものだと思われる。そうして生産された少女型のメイドロボットは顧客を殺害した上で自身も自殺(自壊)するという事件を何度も引き起こすことになった。

最終的に実在の少女らは公安9課職員によって救出されるわけだが、9課職員のバトーは助けた少女に怒りをぶつける。「犠牲が出るとは思わなかったのか?ロボットに殺された被害者の話じゃない、魂を吹き込まれた人形がどうなるかは考えなかったのか?」と。バトーがごついおっさんだったということもあるのだろう、少女は「だって、だって、私は人形になりたくなかったんだもの!!」と号泣する。その直後、バトーは一瞬はっと何かを気づいたような表情とともに、後悔しているようなため息を小さくつく。

先に書いたとおり、日常的な感覚で言えば人間よりも人形のほうを大事にするという感覚はすこしズレている。廃人になるまで魂をコピーされている人間の少女と、その魂を吹き込まれて人間を殺している人形(ロボット)が居るならば前者を助けるべきという人が大半ではないだろうか。しかしながらこの映画では一貫してロボットと人間の境界が曖昧になるような言動が多く、バトー自身その思想に毒されていたということもあり、少女の「私は人形になりたくない」という叫びで現実に引き戻されたということを表現しているのだと私は解釈した。

この映画では無機質でありながら人間と似通った人形が実は人形とはあまり違いがないかもしれない、という不気味さが表現されている。主人公の一人、バトーは実際に人形の立場に立って人形が可哀想であるというような発言を行っている。

そしてとても重要なことは、先述した「無機質なものに対する愛情」と、この人殺しの人形が可哀想である、あるいは守るべき存在である、と考える思考は基本的には同じものではないだろうか。

だとすると「無機質なものに対する愛情」は容易に人間と近いが明らかに異質であるという不気味さと表裏一体ということになる。考え方、表現の仕方によって不気味にも愛情深くもなる。まるで同一の根から薔薇とひまわりが咲くような不思議で興味深い事柄だと思う。

なお、原作の攻殻機動隊において本映画のベースになったエピソードでは回収された殺人ロボットに対して「ロボットの人権を認めて開放しろ」というデモ隊がおしかけ、9課職員が「人権も安っぽくなったものだ」と辟易とするシーンがある。

12. 大日本天狗党絵詞

ロボットではないのだが、ちょっと思い出したので一応書いておく。

「道具や人形は使い続けると魂がこもり血が通ったものになる」みたいな考え方は黒田硫黄氏の名作「大日本天狗党絵詞」でも登場する。これはロボットではなくて泥人形の話であるが、無機質なものに対する愛情、をすこし違った角度から掘り下げてみたい場合は読んでみると面白いかもしれない。

13. ターミネーター2

名作なので解説の必要はない?とも思ったが、若い人は見たこと無いだろうとも思ったので簡単に解説する。と言っても、私もあんまり見たわけじゃないのでそこまで詳しくないが…。

未来から主人公を守るロボットと主人公を殺そうとするロボットの二体が送り込まれ、戦いを始める。という感じ。終わり。雑ですみませんが…。

先程、ロボットは好意的に描かれる場合もあれば不気味なもの、恐怖の対象として描かれることもあり両者は表裏一体だと書いた。ターミネーター2はその両方が出てくるのでひと粒で2度美味しい、リバーシブルタイプ、ラーメンチャーハンセット、みたいなお得感のある作品だと思う。

ターミネーター2は1991年公開の映画で、その時私は6歳だった。数年後に地上波で放映され、その当時の子どもたちの中には虜になった人も多かったように記憶している。最新型で、不気味で、強い液体型のロボットT-1000と、それとは対象的に旧式でメカメカしいシュワちゃん演じるT-800。T-800は最終的に主人公少年を守ることに成功するが、過去の時代に未来世界の技術を残してはおけないと自ら溶鉱炉に突入し、最後に親指を立てて沈んでいく。グッジョブの意味で親指を立てるというのを教えたのは主人公少年であった。

この映画が「ロボットが犠牲になって主人公を助ける」というストーリーで最も王道の流れであり、かつ、最も有名な作品なんじゃないかと思う。

私は「ハーレーに乗って散弾銃をかかえた、サングラスをかけたムキムキのマッチョ」みたいな昔の大味なアメリカ的雰囲気があんまり好きじゃないので本作品もそんなに思い入れはないのだが…。

14. BLAME!! / BIOMEGA / 他

弐瓶勉氏の漫画。SF作品。

弐瓶勉氏の作品でもたびたび人造人間やロボット、AIといったものが登場し、それらはときに人間を殺害したり、ときに人間を守って犠牲になったりという描写がある。

たとえばBLAME!!という作品では、イコ、ドモチェフスキーという二人組が登場する。これらは人間ではなく、AIが搭載されたロボット(のようなもの)である。その任務は近隣に居る人間を無条件に保護するものだと説明している。最後には犠牲になって死んでしまう。

BIOMEGAには「重二輪」と呼ばれる大型のバイクにAIが搭載されており、そのドライバー(これも言動は人間だが人造人間という設定)とバイクのAIがセットで戦闘行動を行うという世界観で物語が進んでいく。

弐瓶勉氏の作品ではかなりぶっとんだ設定が多い。「シドニアの騎士」も、「主人公好きだった女の子(A)が化け物に食われ、その化け物が女の子そっくりの肉塊(B)と(C)を作り、その肉塊(B)と人間を交配させた化け物と人間の交配種(D)のことを主人公が好きになるが結局交配種(D)は死んでしまい、(D)の破片を(C)に転写して出てきた主人公が好きだった女の子(A)によく似た外見の、中身が(D)であるよくわからない生き物と結婚して子供を生み育てる」みたいな、要約するとそいう話になっている。

弐瓶勉氏の作品の良いところはこまかい科学考証をすっ飛ばしてひたすら自由でかつ難解な、しかしなんとなく理解できる世界設定を構築していき、そこで繰り広げられるバトルが面白い、という類のものだとは思う。

なので、ここまで述べてきた「ロボット」の話とはあまり重なるところは無いのかもしれないが、まあそれは見る人によっても違うのかもしれないので一応紹介しておいた。

15. 機械仕掛けの愛

これはちょっと心にきますね…。

ちょっと背景を説明させていただきますと、Twitter上でボロボロになった雑巾が「たくさん使ってくれてありがとう」とゴミ箱に突入していくイラスト(うろ覚え)を見たことがあり、うわ、これしんど…と思った。なんか、こういう本来無機質なものが人間と同じように振る舞っていると人間以上に可哀想に思えたり、あるいは人間以上に愛おしくて尊いものだと思えたりするんですよね、私は。そういう性癖なんだと思います。

で、そのツイートに「こういうイラストに弱い…」と引用ツイートしてらっしゃる人がいて、その人から教えてもらった漫画であった。この流れがあって今回の記事を書きました。上記の流れは確かもう2年弱くらい前にやりとりしたことだったんですが、それからなんやかんやあってようやく公開できました。

「機械仕掛けの愛」はここまで長々と書いてきたようなことをひたすら高純度に精製して直接摂取するような、そういう「うっ…」とくる内容の話が集まっています。

第一話「お母さんに会いたい」だけを簡潔にまとめますと…。

遊園地で楽しそうに遊ぶ夫婦とその娘「まい」の姿という微笑ましいシーンから物語が始まりますが、すぐに妻がため息をつき、「あの子(まい)にも飽きてきちゃったな…」と。それに対して夫が「じゃあ帰りに新しいペットロボを買うか!」「次は男の子がいい!」などと夫婦ではしゃいでいる。つまり娘のような姿の「まい」は無邪気な娘のように振る舞うペットロボットであるということですね。私なんかはこの時点でキツイ。

カーディーラーのような外観のペットロボを販売する店舗で夫婦は新しい男の子を品定めしますが、「まい」は入口で突っ立ったまま、「USED」の札が下げられたほかの女の子型のペットロボットをぼんやりと見る。

新しい男の子型のペットロボに夢中の夫婦は、一緒にトランプをやったりキャッチボールをする約束をしたりと楽しそうであるが、「まい」は暗い部屋で充電されたまま。また私は中古として売られていくのだろうか。ストレス発散のために買った人には叩かれ続けた。へんなおじさんに買われて体を舐められたこともあった。でも、ずっと前にかわいがってくれた「おかあさん」のことだけはいつまでたっても忘れられなかった。あの「おかあさん」にもう一度会いたい。

そうして一人勝手に家を飛び出し、電車とフェリーを乗り継いで「おかあさん」に会いにいったが、その玄関先では「おかあさん」が女の子に絆創膏を貼っていた。「おかあさん」にはもう本当の娘が居た。そうだった、5年前に本当の赤ちゃんができたから私はいらなくなったんだ、ということを思い出す「まい」。その直後に「まい」は警察に捕まってしまう。ロボットが脱走するとGPSで追跡してすぐに捕まえることができるという。

「まい」は諦めておとなしく警察官に従うが、それを呼び止めたのは「おかあさん」だった。「あなた、ルミちゃんだよね?」とおかあさんは言う。「いいえ、私はまいと言います」と否定するが、おかあさんは確かにあれは以前うちにいたルミちゃんだったと確信する。

「まい」はオイルの涙を流し続け、その跡が残ってしまった。さらにその上、脱走するようなロボットは商品にならないからと中古販売業者によって記憶を消去されてしまう。

これじゃ売り手がつかないかもな…ととりあえずで店先に並べられた「まい」のところに訪れたのは「おかあさん」だった。「この子ください。私、この子を育てたことがあるんです」と言うおかあさんに対して店員は「ああ、でもメモリは消してしまったんです…」と苦笑いするが、おかあさんは表情も変えず「いいんです、この子のことは私が全部覚えています」と、もう「おかあさん」のことを覚えていないロボットの「ルミちゃん」を買って連れて行く…という話。

と、まあこういう話が一話完結で大量に詰め込まれている。6巻までは読んだが、この第一話が一番心にくる。

雑に言えば家族から引き剥がされて奴隷として売られていったかわいそうな女の子が家族のもとに帰る、というようなプロットの話とよく似ていて、その奴隷の部分を人間に奉仕するロボットとして置き換えた、というように捕らえることも可能であるとは思う。

しかしながら、私は人間が可哀想な目にあう話よりもロボットが可哀想な目に遭う話のほうがずっと悲しく感じるんだな…。それはなぜか?と問われたら、ロボットは単純な原理で動いているという設定がなされることが多く、それが純情さ、ピュアさとしてより可哀想な感じを引き立てているのかもしれない。ただ、それが「無機質なものに対する愛情」の全てではない。

この「お母さんに会いたい」でも、最終的にお母さんはロボットの中から「ルミちゃん」の思い出がすべて消え去っていたとしても、何のためらいもなくこれは私が育てた子なので、とロボットを購入していく。これはとても重要な描写であると思う。思い出が抜け落ちていても、慣れ親しんだ入れ物に愛着を感じる。これはつまり、ダイレクトに「無機質なものに対する愛情」を説明している。

逆に人間同士のふれあいを描いた創作作品では、ともに過ごした経験を重要視することが多い。血の繋がりや組織、立場の違い、育ちの違いといったギャップを「苦楽を共にした体験」が埋めてお互いを大事に思う感情が生じ、それを「絆」などと呼んだりする。最終的に仲間の目的がすれ違ってしまったり、離れ離れになってしまったり、あるいは経験の入れ物である体が失われてしまった(=死んだ)としても、絆や思い出は残る、というような感情に訴えかけるようなものが多い。

「お母さんに会いたい」のように記憶が消されてしまっても一緒に居る、という愛情は人間同士のプロットに置き換えると「記憶喪失になった彼女でも一緒に居続ける」みたいな話になるだろう。ただ、そういうストーリーでもやはり対象が人間であると最終的に記憶が戻ることがハッピーエンドになったり、記憶が戻らなくても以前の記憶が少しだけ頭の片隅に残っていて感情として現れる、みたいな終わり方をすることが多いように思うので、ロボットの無機質な「思い出の入れ物」とは表現がちょっと異なってくるようにも思う。

17. ウォーリー

HAL9000の見た目そのままな「人間に対して反乱を企てるロボット」が登場し、その企てを別のロボットであるウォーリーらが阻止する、というわかりやすいストーリーになっている。ディズニー作品ということもあってか、基本的には子供向けにわかりやすいストーリーになっていると思う。

この映画は他のロボットが登場するSF作品へのオマージュが随所で見られる。

すごく記憶に残るとてもいい作品だ…とは正直思わないが、冒頭の荒廃した地球でただ一人ゴミを集め続けるシーン、一度失われてしまったロボットの記憶を取り戻すシーンなど、よくあるロボット作品で見られる表現がPIXARの高い表現力によって描かれているので、未視聴でロボット好きであれば、一度は見てみてもいいだろうと個人的には思う。

18. 新世紀エヴァンゲリオン

これもロボットとはあんまり違うのだが、「大日本天狗党絵詞」を入れるのであればこれも入れておこうと思う。

新世紀エヴァンゲリオンで登場するロボットには基本的に感情はなく、ガンダムのようにパイロットが搭乗してパイロットの意思で動かす必要がある、という設定だ。また、劇中では「人造人間である」と表現されており、その内部は機械ではなくて南極で見つけた「神様」「天使」のような異質な生物を複製してそれにロボットっぽいガワと制御回路をかぶせたものであるという説明がなされている。体組織は人間のように似ていて、人間のような血液を流したり、人間が怪我をしたときのように包帯を巻いて体組織を修復している描写がある。

エヴァの目的は「使徒」と呼ばれる謎の怪獣のようなものから人類を防衛することであるとされ、そのパイロットは子供でなくてはならず、中学生の少年少女が乗り込んで操作しなければならない。そしてパイロットは誰でもいいわけではなく、基本的にはエヴァとの「シンクロ値」と呼ばれる相性の値が良い組み合わせなくてはならない。シンクロ値が良いとエヴァはより忠実にパイロットの意思と同期して動き、これが悪いと起動すら不可能になる。そしてそのシンクロ値なるものは「コア」とパイロットの相性で決まるらしく、その「コア」にはパイロットの両親いずれかの魂が入っていることがどうも必要である(必須ではないが、そうなっていることが望ましい)というような説明がされている。

とても残酷な話である。

エヴァは時折パイロットとの意思とは無関係にパイロットを守るような行動を見せることもあり、そうするとパイロットは「お母さんに守られている」という感想を抱くようだ。

こうした設定から考えてみても、人造人間エヴァンゲリオンはここまで述べてきたような無機質なロボットではなくて、むしろ積極的に人間の魂を取り込んだ人間に限りなく近い人造人間として扱われている。だから、ロボットが犠牲になって人間を守ってくれたエピソードが一応は存在するものの、本記事で取り扱う範疇ではないように思うが一応書いてみた。

19. ジゴロ次五郎 湾岸ミッドナイト 頭文字D レッツ&ゴー ダッシュ四駆郎など

こうした数々の「車」とか「ミニ四駆」の漫画では、車(ミニ四駆)が意思をもって主人公とともに困難に立ち向かう、というような描写が多い。

最も古いのは「ダッシュ四駆郎」だろうか。私が小学校に入る前くらいにコロコロコミックでやっていた作品だから、80年代?90年くらい?そのあたりの作品だ。

だから記憶もおぼろげなのだが、とりあえずミニ四駆は主人公のお友達、というコロコロコミック(や少年誌)にありがちな設定であったと思う。

ただ、ミニ四駆はあくまでもミニ四駆であって現実のそれと大きく違ったものはなく、アイスホッケーの棒みたいなやつでミニ四駆が進む方向をガイドしてやってレースを行う、みたいな内容だったと思う。主人公らはミニ四駆を大事にカスタムしてライバルに打ち勝とうと努力する。それは愛着のある道具を大事に使うといった感じで、まだ「お友達」という感覚は薄かったように思う。

それに続いて連載した「レッツ&ゴー」はかなりぶっ飛んだ設定だった。主人公(たしか双子だった?)が所有するミニ四駆「マグナム」は「いっけーマグナム!」の掛け声とともに急加速したり、コースを飛び出して回転しながらショートカットしてゴールしたりと、当時幼かった私もありえねぇなと笑ってしまう展開が多かった。

「レッツ&ゴー」で描かれるミニ四駆は基本的には「準人間」みたいな扱われ方をしている。人間ではないが、人間と意思疎通が可能であって、人間とミニ四駆は友達であり、相棒であり、ともに戦う戦友である、みたいな。狩猟犬と人間の関係に似ているのかもしれない。ようするに少年が好むような「相棒」「仲間」といったものをミニ四駆の中に見出しており、その扱いはやはりダッシュ四駆郎のように道具に準じたものではなくして人に準じたペットないし狩猟犬のような扱いをされている。この点は攻殻機動隊のタチコマにも似ているかもしれない。

「ジゴロ次五郎」「湾岸ミッドナイト」「頭文字D」はもっと大人向けの作品であるが、これも同様の表現がある。

「湾岸ミッドナイト」「頭文字D」はどちらかというと「ダッシュ四駆郎」に近い。

これらでの自動車はドライバーによって「相棒」であるとか、「身をよじるようにパワーをひねり出す」「コイツ(車)はまだ走れるって言っている」といった擬人化表現が多い。また、ドライバーのミスによって自動車が故障してしまった場合にはドライバーが自動車にすまなかったと誤り、自動車のために完璧な修理にこだわったりするというシーンもある。

しかしながら物理的な役割は自動車そのものであって、掛け声に合わせて加速するなどという超常現象は発生しない。あくまでも公道自動車レースの結果は自分の運転テクニックと自動車の性能のみに由来し、自動車をさも人間に準じたような扱いをするのは感情表現としてだけである。

一方で「ジゴロ次五郎」は「レッツ&ゴー」に近い。主人公が乗るシルビアは意思を持っているとされ、主人公の操作とはまったく異なった挙動をし、登場人物はそれに恐怖するが、なんだか毎回主人公の手助けになるような結果になってしまうというギャグ漫画だ。

ギャグマンガだからか、それとも加瀬あつし氏の下ネタの印象が強いからか、よくわからないけど「ジゴロ次五郎」はそれでちゃんと収まっていて、とても笑える作品に仕上がっている。しかしながら機械に対する愛着、愛情といったものを表現するシーンは一貫して真面目に描かれており、作者の車を愛する心が強く伝わってくる。

あんまり関係ないが、加瀬あつし氏の漫画は名言がとても多く、「車高の低さは知能の低さだよ〜ん」といったセリフなどが今でも車高調を入れて車高を下げた車などを見ると思い出してしまい一人で笑っている。

特に自動車やバイクといった乗り物は一定程度の危険性を孕んでおり、その危険性とともに様々な場所に出かけ、旅をするという特性上、それに愛着を持つ人は多いのだろう。

私は子供の頃から長年使った冷蔵庫を捨てたくないと泣いて親にお願いするような子供であったので、自動車を乗り換えるときも嫌だと泣いたものだった。冷蔵庫で泣く人はあまり多くないと思うが、古い自動車との別れが悲しいと感じる人はかなり多いのではないだろうか。ここで一貫して述べている「無機質なものに対する愛情」というのは、それを様々なものに拡張して適用した感情である、という説明をすれば分かって頂けるかもしれない。

20. その他

その他、「ロボットが人間のために犠牲になる話って何かあります?」とTwitter上で聞いたときに帰ってきた回答を貼っておきますのでご参考まで。

私はどれも見たことがないです。

  • スターウォーズ ローグワン
  • ドラえもんの海底鬼岩城
  • ガンヘッド
  • 翠星のガルガンティア
  • アイアンジャイアント

まとめ

のべ3日ほどかけて2.5万字も書いてしまいました。

「ロボットと人間のふれあい」というのは、「動物と人間の交流」みたいな話と基本的な構造が似通っていると思います。すなわち、意思疎通が難しい、外観が人間と大きく異なる、といった相手に対しても人間は愛情を感じることができるのか?人間の愛情とはどこまで及ぶのか?というテーマを感じさせます。

もっと広くいうならば、これは多様性ということなんでしょう。相手が人間であれ人間じゃないものであれ、自分とは何かしらことなる相手に対してどこまで寛容になれ、あるいは愛情を感じることができ、絆を結ぶことができるのか、という。宗教観や文化が違う人たちと仲良くなるためにはどうすればいいのか?という、雑に言えばそういう話とも共通点は多いと思います。

しかしながら特にロボットに関しては、その他のテーマとは違って人間が無機質なものに対して特別に抱く感情があるのではないか?という予想をしてしまいます。それが本当にあるのかどうかはわかりませんが。

例えばそれは記憶を失ったロボットに宿ります。そんなに複雑なものじゃなくても、単に愛着のある道具、自動車やおもちゃにも宿ります。それらは決して人間らしい表現を行わないですが、ときに人間は人間以上に無機質なものを愛おしいと思うこともあります。

その感情はどういう機序で発生するのかとか、その本質的なものは無機質だからこそ感じ取ることができるのか、あるいは単に人間よりも純粋さ、素朴さを感じさせるからなのかとか、そういう小難しい面倒なことを一旦置いといたとしてもとても興味深いことだとは思わないでしょうか。

という感じで、気になった作品があったらぜひ見ていただければと思います。よろしくお願いいたします。