2022年03月10日の日記

度々書いているが、記事のタイトルにはあまり意味がない。この日に公開した雑感、という程度の意味であって、この文章が書かれた日にちはばらばらだ。


ゼレンスキー大統領が脱出して亡命政権を立てたとして、ウクライナに再び戻れる日はあるだろうか、というのを考えていた。

このままだとぜレンスキー政権を排除しようとしまいといずれにせよロシア経済が持たない、という話も多く聞く。反面、SWIFTは抜け道も多いとか中国が援助するだろうとか反対の予測も聞く。ただ、今回に関しては民間企業も積極的に制裁を進めており、ロシア経済が持たないのではないか?という推測の方に分があるような気がしてきた。インターネットからの切断、海外サービスの遮断、海外企業の撤退、これらが続くとロシア国民に相当な打撃が加わるはずだ。というか、現段階でも加わっているように見える。報道をみてる限りだが。

ともかく、ロシアがダメになってプーチンが降ろされて経済制裁を解くために西側の要望を飲む、という未来になったら戻れそうな気がする。

軍事関係の有識者の見立てを総合すると、やはりウクライナ独力で国土防衛することは厳しそうだ。かといってNATOが直接介入するとも思えない。NATO介入は世界規模の戦争に発展しかねない(と言われている)からだ。

プーチンは経済政策を緩めるために自身の要求を妥協するのではなく、さらに武力をもって西側諸国を脅迫しようとしているように見える。もはやプーチンはソ連の亡霊みたいなものに取り憑かれているのだろう。

ロシア国内世論によってプーチンを引きずり落とす、というのが武力によらない根本的な解決策だが、今の所の支持率を見るとなんだかんだで過半数のロシア国民は戦争とプーチンを支持しているようなので望みは薄いだろう。

じゃあどうなるのか?わからない。どうなるんだろう。


家族に新型コロナ濃厚接触者が出た。発症すれば家族全員が家から出られなくなる。不便だが世界中には砲弾が家に降ってくるような地域もあると考えればまあ耐えられるだろう。災害防備のテストにもなる。


毎日家の中を掃除してから仕事を開始している。うそやろ?というくらい、毎日毎日、ゴミが出る。猫のせいだとおもう。今日は猫のゲロも掃除した。洗濯もした。私が掃除機をかけるのをやめたらすぐに家はゴミに埋もれるだろう。

最近、自分が居なくなったら社会はどうなるだろうと考えることが多い。ただの思考実験である。家族は困るだろうが、家(団信適用)と生命保険が残るのでなんとかやっていけるだろうと思う。カメラやバイクを売ればそこそこの金にもなるだろう。仕事に関してもまあ私がいきなり抜けたら困るところは多いと思うが、そんなに妙な作りになっているところは無いので(仕方なく妙な作りになっているところはメモを残している)、後任者が調べればすぐにわかるだろうとも思う。「私が死んでも悲しむ人など居ない」などとこじらせた中学生が言いそうなことは言わないが、しかし実際問題として、人が死んだところで社会は大きくは変わらない、これが私の認識であり、かつ、事実と言って良いと思う。

一人どころか、ウクライナでは何百人、おそらく何千人と死んでいっても日本国民の暮らしは大して変わらない。それどころか、ガソリンが高くなったからなんとかしろとギャーギャー騒いでる。アホかと思う。家計には年間4万円の負担増というインパクトがある、という試算を見た。人が何千人と死んでいる影響で我々の年間のお小遣いが4万円減る、その程度でよくもああギャーギャー騒げるよな、と思う。

人間というのは、何処の誰かもわからない赤の他人が死んだところで大してなにも思わない、「私は中立です。双方が平和的な手段で話し合って解決すべきです」か何か言って私はクレバーなので争いは好みません、という顔をする。地球の裏側の安全地帯から。平気でそういうことをする。ただの冷血人間なのである。クソみたいな社会だと思う。社会と言うか、もとを正せば人間の性根がクソなのだ。

人間がクソだから争いは無くならない。すべての戦争が話し合いで解決できると主張するならば、隣人トラブルも会社での上司との確執も当然すべて話し合いで解決できるはずだと思う。しかし実際は隣人トラブルも上司との確執も話し合いでは解決しない。双方がお互いの主張を述べて平行線になるだけだ。なぜならば人はそれぞれ譲れない一線がどこかにあるから。そんなときにショットガンが家にあればぶっ放すやつも出てくる。日本でそういう事件が起きないのは単に銃刀法が機能しているからで、アメリカ他では隣人にぶっ放されて死んだ人が何人もいる。その主体が国家ならば戦争になる。そういうことだと私は理解している。個人の自由、権利、あるいは国家の自由、権利、主権を認めるならば、相容れない部分は必ず出てくる。ならば争いも続くと思う。ユートピアは現段階で存在しないし未来永劫出来上がることもない。

それを分かった上でユートピアは目指すべき姿には違わない、人殺しは良くない、争いは話し合いで解決しなさいと言い続けよ、それが大人である、と新井英樹氏は言っていた。そのとおりだと思う。蓋し正論である。

しかしもう私は疲れてしまったんだな。別にウクライナだけじゃない、身の回りのあらゆることに。大国が侵攻して全世界を敵に回している、その結果おそらく何千人もの人死にが出ている、その結果我々の社会に対するインパクトが年間4万円の支出増でそれが許せないと人々が騒ぐ。嘘やろ?だったら自分一人が居なくなっても、社会に対するインパクトってほとんど無いやな、って思う。

度々言うが、これは中学生がいじけたような事を言っているのではなくて、現実を総合するとそうなる、というのを経験的に知っているからだ。私は何度も人の死を身近で見てきた。記憶に残っているところを述べると16歳、18歳、24歳、42歳、80歳、85歳、90歳の人が死んだのを目にした。若い人ほど悲しむ人は多かったが、それ以外に大きな違いはなかった。子供を失った両親の心には永遠にダメージが残るが、せいぜい3親等も離れればすぐに日常と世間が迫ってきて悲しむ暇もなく働きに出て生活をして行かなくてはならない。そういう世界である。そんなに生きることって大事なのだろうかと思う。そう思うことは前段の文章と矛盾する。このあたりがよくわからない。