2022年02月23日の日記

以前から流行りものが嫌いだったが、今もそれが続いている。

中学生の頃はテレビが嫌だった。友達が芸能人やテレビの話をし始めると嫌な気分になった。私はテレビをほとんど見ないし、みんなは当然知ってるよなぁ?という前提で話しかけてくるし、知らんというと馬鹿にされるので本当に嫌だった。当時話題になったのはなんだったかな…。GTO、白線流し、ショムニとかそのへんだったかな。GTOやサイコメトラーEIJIは原作のほうを読んでいたもののドラマ化となるとまるで興味が沸かなかった。自分が好きなのはあの作者の絵とストーリーであって、ドラマはまた別物だという感覚があった。

J-POPも聞かなかった。一切聞かなかった。90年代、CDが100万枚単位で売れてみんな売上ランキングを見てたあの時代に。

それらの理由は「興味が沸かなかったから」が根本的な理由であるが、前述したように流行りのなにかを知らないと馬鹿にされるという経験も非常に多かったがために、流行ってるものなど絶対に見るものか、と意固地になっていたという背景もある。

現状でもそれは続いている。

これを冷静に考えてみる。

「流行っている」ということから分かるのは、その作品、コンテンツが一定のクオリティをクリアしているということだけだと思う。経験上、流行っている作品で明らかに商業レベルに達していないような低いクオリティのものはなかった。(そもそもほとんどの流行っているコンテンツは商業的なのだから当たり前なのだが)

一方で、「流行っているから良いものである」という言説は私は絶対に違うと思う。度々、売れているものが良いものである、と断言する場面を見ることがあるが、これは理解できないですね。

そもそも「良い」が何を指してるのかもよくわからない。「良い」の意味が「儲かる」ならば「流行っているから良いものである」は納得である。当然である。でも、「良い」が言葉通りの意味、「良さ」を指しているのであればそれは絶対に違うと思う。売上と作品の良さには相関関係はあるかもしれないが、しかし両者を同一視するのはありえないと思う。

おそらく、売れているものはつまり大多数の人が良いと思っているのであって、その良いという感情の総和は売れていないものよりも大きくなり、それに実質的な売上・粗利が比例していくので当然売れているものが良いものである、という図式が成り立つ。と、こういうふうに考えているのであろう。

私はそうは考えていない。私が考える「良さ」とは、

良さ = (扱っている分野・表現の希少性 + 作者・制作陣の個性 + 作品を制作するための技術力) × 鑑賞する人のバックグラウンドと作品を構成する要素の一致率

というような式で決定されると思っている。「流行っているから、売れているから良いものである」という基準の決定的な欠陥は受け手の性質が完全に無視されていることである。ある作品を見てそれをどう解釈するかによって評価は異なってくる。

そして受け手の性質とはすなわち、どれだけ共感できるか、であり、より具体的にはどれだけ自身の経験と一致するところがあるか、という単純な基準に還元できるのではないか、という仮説を(今の所)持っている。

これも声を大にして言いたかったことなんですが、度々「人間は自身が経験していないことは絶対に描けない」という言説が出てきて、それに対して「じゃあスペースコロニーを落とすSF作品も生まれなかったし、ミステリー作家には殺人犯でないとなれないですねwwww」みたいなコメントが付くが、いやあ、そういうことを言ってるんじゃないんだよな。

「人間は自身が経験していないことは絶対に描けない」というのは、人間の想像力は自身を経験としたことをベースにするしかなく、完全に新しいものを作るのは不可能ですよ、ということなんですよね。

たとえば「スペースコロニー」というのも、SF作品で登場するネタとしての知識や、将来的に宇宙にも人間が住めるようになるだろうという科学的な知識をベースにした見積もりが人間の頭の中にはあって、それを前提とした上で解釈可能になるのだから、やっぱり自分が経験してないとそういう話は書けないし、理解もできないんですよ。

例えば「ハローサマー、グッドバイ」も全くの未知の惑星系や生態系をベースにした話ではありますが、あの作品の中で描かれているのは筆者が冒頭で「これは恋愛小説であり、戦争小説であり、SF小説であり、さらにもっとほかの多くのものでもある」と書いている通り、恋愛、青春、戦争、SF、そういった個々人の知識や人生経験をベースにしているので、やはり「人間は自身が経験してないものは描けない」と言っていいと思いますよ。

ガンダムは見たことがないのでわかりませんが、あれだって人気である理由は人間ドラマだったり、現実の兵器や科学知識をベースにした考察が面白かったりするから受け入れられてるんでしょう、多分。

真の意味で人間が経験したことのない作品がもし出来上がったら、それはもう無機質的で人間が理解することはできないものになると思いますよ。

で、ちょっと話がそれてきたので上式を使って「売れているものが良いもの」、つまり「それを鑑賞した人が良いと思った感情の総和」のことを考えてみるならば、まず、売れているものは大多数の人に理解してもらえやすいということになり、つまりほとんどの人が経験したこととの重複部分が大きいとは言えると思う。すなわち、「鑑賞する人のバックグラウンドと作品を構成する要素の一致率」の平均値が高くなるということなのではないかと思っている。

しかしながら、個々人の主観を基準にすると、当然ながら個々人の主観は平均値とは異なるので、平均的な良さが個々人の良さとはマッチせず、あくまでも平均的に良いと思えるだけになる。だから、人は流行り物のすべてを好きになることはないし、流行っていないものや流行りの過ぎたものを好き好むことがあるのだと思う。


今日みた夢。

食洗機が壊れる。ビルドイン食洗機が落ちてきてしまう。

地元のお祭りに行っている。毎年の夏休みに行われていたもので、出店が5〜6個くらいは出ていたが毎年すこしずつ規模が縮小していった。私がもうお祭りに行かない年になってからは、「今年は出店が一個しかでていなかった」「今年はもう出店が無かった」「地域にはもう子供がほとんど居ないし、今年で最後になる」などという話だけを親から聞いていた。

お祭りでは小さなステージが作られて小学生や近所のおっさんおばはんによるカラオケ大会があった。私も義務のようにそれに参加していた。

このカラオケ大会を子供のときは嫌っていた。終わらないからである。もう帰って寝たいのに夜9時近くまで続いた記憶がある。待ちきれずにござの上で眠ってしまい、父親に家まで運ばれるというのが毎年の夏休みだった。

夢の中では出店がたくさん出ている上に、飲食店も2〜3店舗できていて華やかな雰囲気だった。彼女(現実には存在しない、知らない人)を連れてホットドッグを二人で食い、ぶらぶらしていた。徐々に薄暗くなっていって、対象的に提灯が明るくなって、小学生が出店で買ったと思しきおもちゃの拳銃を撃ち合い走り回っていった。こういう光景も絵に描きたい。絵に描きたいものばかりが増えていって、中々実際に描けない。それは自分の技術力のなさによって夢でみた美しい光景がありきたりでつまらないものに変化してしまうことを恐れているから、という理由もある。


Twitterを止めてから(というかあまり見ないように・書かないようにしてから)、毎日ブログを更新してきたが、これも更新頻度を落とそうかな、と思います。

たとえば今日の記事も3000字くらいは書いているわけで、これだけの労力をかけるなら、その分を小説に費やしたほうが良いな、と思ったので。

例えば25万字の小説を書くと考えた時に、3000字ならば1%は超えるので100日分くらいのブログ記事を書く作業量で小説一本が出来上がる計算になる。