2022年02月13日の日記

私がTwitter上で勝手に一方的に尊敬している人が何人かいて、そのお一人が以前、

「私は脳に性差は無いと思う」

とおっしゃっていた。確か、あるかどうか分からないが、今の所無いと思っている、という感じの断言しない書き方であったとは記憶している。

それを今でもたまに思い出す。

私は脳に性差はあり、考え方にも性差はあると思う。生物学的な話をするならば、まず遺伝子には当然ながら性差があり、その遺伝子によって体内で分泌されるホルモン、酵素の量に性差が生まれ、それのいくつかは脳にも作用するから性差は生まれる、と思う。また、研究によって解剖学的にも脳に性差があることが分かっている。さらに、日常生活を見ていても明らかに女性的/男性的だと思える行動、考え方は存在する。だから、私としては脳には性差がほぼ確実に存在するだろう、と考えている。

ただ、脳の器質的な性差や内分泌物質の性差が最終的に脳の考え方の性差に影響しているかどうかは、なんとも言えないような気がする。「考え方の性差」をどのように定義し、検証するかはとても難しい。

その方は私なんかよりはずっと頭が良いので、ここまで書いたことは当然知っていると思うし、その上でも「性差が無い」と思っておられるということなのだと考えている。

ではどういうことなんだろう?と、それをずーっと考えている。

私達が日常生活で性差があると感じている行動や考え方の違いは丁寧に紐解いていくと実は性差によるものではなかった、ということなのか、それとも本来性差は存在するが、社会的な役割が与えられるとか論理的・科学的な議論をしているとか特定の場合に置いてその性差は覆い隠されるということなのか。わからない。今も分かっていないが、定期的に性差はあるのかないのか、ということを考える。

多分、答えは出ない。

そもそも他人の考え方を推し量ることが難しい。

たとえば昨今ロシアによるウクライナ武力侵攻が危惧されているが、国境に軍隊を集めておいて、実際に作戦行動が危惧されるような部隊の展開がなされた上で、本当に侵攻するかどうかという意思はプーチンの頭の中にしかなく、プーチンがどのように考えているかはプーチンにしかわからない、という趣旨のことを複数の専門家が述べておられた。

その人の考えは言動に現れる。だから人は言動を見てその人の頭の中がどうなっているかを推測する。この方法でしか他人の頭の中を理解することは出来ない。

人と人が本当に理解し合える、ということは幻想だし、無理だと思うし、理解し合えるべきではない。頭の中は個人の人格の中で唯一侵犯できない神聖な領域であるべきだと個人的には思う。

だから人間関係はややこしいし、恐ろしいし、面倒くさいし、面白いとも思う。

例えば、ぱっと思いつく例だと私は原作者と作画が別れているタイプの漫画を描く人の気持ちがまったく理解できない。

漫画を描いて売れるだけの表現力と技術を持ち合わせていながら、なぜ最後のあと一歩、自分の世界を頭の中で創造するという一番面白いところを他人に委ねてしまうのだろうか。

同様に、アニメーターという職業もわからない。圧倒的な画力を持っていながら他人がデザインした絵柄を何枚も何枚も描き続けるモチベーションが何故湧いてくるのだろう。

おそらくは価値観が私とは違うのだろう。私は新規に何かを作り出すことが好きだし、それに価値があると思っているが、彼らは既存のものをより優れたものに昇華させることに価値があると考えているのかもしれない。当然、両方の考えにどちらが正しいとか間違っているとかいうのはないし、優劣も無い。

論理や理性ではそれは分かるが、しかしどうしても心の根底ではなぜ一番面白いところを他人に任せてしまうのか、もったいないと思ってしまう。そういう意味ではやっぱり私は他人のことは理解できない。考えの違う他の人のことを認め、その他大多数の人と分け隔てなく同じ態度で接することはできる(少なくとも、そのように心がけている)。

この世には性差なり考え方の違いなり価値観の違いなりがあって、だからこそ人間は理解できない。私が人間関係を鬱陶しいと思い、なるべく人に関わりたくないと思ってしまうのもそのあたりが原因なのだろうと思う。だからこそ、「性差がない」というその意味するところが気になるのかもしれない。性差がない、という意味が分かれば、もうちょっと人と接することが苦痛ではなくなるかもしれない。そんな事を考えている。