2022年02月03日の日記 SFデザイン

私が愛してやまないシモン・ストーレンハーグ氏がTwitterで以前、「六角形デザインは『未来な感じ』を醸し出すための時代遅れで怠惰な方法だ」と批判していた。

TwitterのアイコンがNFTアートである場合に六角形なデザインに変更されるような機能追加を行ったことに対しての返答。

ちなみに氏はNFTにはアートの破綻という以上に根深い問題があるが、とも述べている。

海外ではNFTアートを始めてはどうかと人々がアーティストに進めるのにアーティストが辟易しているという場面をよく目にする。NFTの話題を振ったならば即ブロックすると言っているアカウントも見かける。

NFTアートとはブロックチェーンを利用してデジタルアートの所有者を証明できるようにした仕組みのことを指す。

これに対し「NFTアートは膨大な電力を無駄に消費するばかりで何の益も生み出さない」と批判する人たちも居る。私もその側だ。ブロックチェーン(あるいは仮想通貨)は適切に応用できるシーンは殆どないと思う。既存のブロックチェーンとその応用は、すでに現代で困っていない応用に対して「ブロックチェーンでも同じことをやってみた」をやっているに過ぎない。皆さんご存知の通り、電子決済は国家が発行する通貨でも可能であり、デジタルアートだろうと物理的な媒体による芸術作品だろうと所有者は著作権法その他で保護され、適切な契約を結ぶことでそれを(商用)利用できる。

NFTとは「ブロックチェーンを使用してデジタルアートの所有者を証明できるようにした、とNFTを発行している事業者が言っている」だけである。例えるならばシーランド公国の爵位を金で買うようなものである。あるいは旅行の記念に買うキーホルダーのつもりで買うなら良いだろう。でもそれ以上のことを期待してはいけない。

デジタルアートの複製が制限されるわけでもない。公開が制限されるわけでもない。クロップ、回転、反転、色調補正に対して耐性のある優れたフィンガープリントが埋め込まれるわけでもない。国際的な取り決めや合意があるわけでもない。「このアートはこの人が所有してますよ」と、そのNFTを発行する事業者が言っているに過ぎない。それ以上に何の意味もない。デジタルアートを実物の美術作品のように扱い売買取引するために障壁となっていた課題は何一つ解決されていないと思う。

ブロックチェーンに陶酔する人たちは人間社会で発生している権威や信用といったものをあまりにも軽視しているのではないか。植民地時代に盗掘された美術品であっても、先進国の美術館が「これは私達が所有するものです」と言えばみんなそうなのだと信用する。美術品の所有権をめぐる裁判が決着して判決が下れば、その人に所有権があるのだとみんな納得する。でも、NFTを発行・運用する事業者にそのような権威はあるだろうか?

NFTアートを購入した人に対して原著作者が「私は騙されて作品を勝手にNFTアートとして売られた。だから所有者には何の権利も発生しない」と主張したらどうなるのだろうか?「私はトークンを売ったに過ぎないのであって著作権の権利行使を放棄するという契約は存在しない」と主張し、NFTアートの所有者が自身の所有するアート作品の商用利用に対して異議を唱えたらどうなるのだろうか?それらは個々に判決で決着をつけるしかない。NFTは何もしてくれない。NFTを取引する時に取り交わした契約が裁判に役立つことはあるかもしれないが、NFTの仕組み自体は特に何もしてくれないはずだと個人的には考えている。

だったらNFTなど利用せず、「原著作者(甲)は本創作品を著作権の権利行使を放棄します。甲はまた、本創作品を今後一切公的な場に公開しません。甲は契約者(乙)が作品の商用利用や公開、改変、二次創作を行うことを認め、これらを差止める権利行使を放棄します。それらの対価として乙は甲に対して契約金XXX円を支払います。この権利は第三者に譲渡可能で、甲はそれに異議を唱えません。」みたいな契約書を弁護士と作り、収入印紙を貼って判子を押す。こっちのほうがよほど役に立つし、デジタルアートを所有している、と宣言できるのではないかと思う。そしてこれに類することはイラストレーターへのイラストの発注、3Dモデラーへのモデリング発注、といった形で日常的に行っているのである(そういう契約書がどんな文面であるのかは知らない。上記の契約書の文言は今この場で適当に考えて作ったものである)。

VRで使用する自分のアバターやSNSのアイコンをお金を払ってデザインしてもらい、納品されたものを「これは自分のアバターです」「自分のアイコンです」と宣言して使用する。皆はそれを認める。その商慣習にNFTが本当に必要ですか?それをよく考えていただきたいと思う。

そもそも、ブロックチェーンや仮想通貨に陶酔する人は度々「国家や企業による管理から脱却した真の自由がある」ということを価値の一つとして話しているが、その彼らはインターネット上ですでに発行・運用機関の権威と信用に完全に依存したTLSやDNSを毎日利用しているのである。バカバカしいことだと思う。

話がそれたので六角形、ヘキサゴンデザインに戻す。

氏がヘキサゴンが「未来感を醸し出すのに時代遅れで怠惰な方法」と述べたことに私もまったく同意である。端的に言うとダサい。もっと言うと登場したときからダサいとずっと思ってきた。ダサくない?

そもそもSF、サイバーパンクなどと銘打った作品でよく見られるデザインである、青色のビームで描かれたようなディスプレイ、六角形デザイン、バーコードやボックス、円のような単純な図形が青いグラデーションの背景に描かれた操作パネル、オペレーションスクリーン上で大きな面積を占めて回転する3Dオブジェクト。ShutterstockでScifiと検索すると出てくるようなこれらのデザインはその殆どがダサくて安易で古臭いと思う。

例えば、こういったデザインを現実に身の回りで見るだろうか?こういったものは前述した創作物の中や「SF感をとりあえず醸し出しておきたいブログ記事」のアイキャッチ画像で無料素材が貼られているか、あるいは自作PCの内部とかでしか見かけることが出来ない。要するに人々に受け入れられていないのである。なぜか?ダサいからである。かっこよければみんなが真似して各種デザインに応用するはずだ。でもそうなってないのは単に利用する、真似する価値が無いからであると思う。

特に作品中の操作パネルや、何らかのオペレーションを監視するための大型ディスプレイに関しては山ほど言いたいことがある。目盛りや十字線、円や孤が複雑に組み合わさったようなUIを操作したり、目まぐるしく変わる細かい数字を見てオペレーターが司令を飛ばす、などというシーンがアニメ、漫画、映画などでよく出てくるが、全く納得がいかない。最新の戦闘機のコクピットとか大型プラントの操作パネルとか、旅客機のコクピットとか、DTMで使用するミキサーとか、自動車の運転席とか、船舶のレーダーとか、そういった工業製品のUIデザインを参考資料として1枚見れば分かる話だ。実際の操作パネルが青い背景にくるくる周る円、孤、十字、目まぐるしく変わる数字の羅列で構成されてないのは理由があるのである。そして未来のSFだろうが、現代と同じような姿の人間が登場するならUIも大きく変わらないはずだ。

これはよくある「科学考証をどこまでちゃんとやるべきか」という論争とは別の話で、デザインと説得力の問題だと思っている。科学考証をしろ、ではなくてまともな資料を半ぴら一枚でも良いから見てくれ、と言いたいのである。

科学考証はもちろんしていない。そればかりか、デザインも放棄している。「未来的」なアイコンであるヘキサゴンや青いビームやデジタルっぽい幾何学模様の背景、そういった安易な「未来感」「SF感」を示すアイコンを安易に使うことで自身の世界観を説明する努力を放棄している。氏が批判しているのはそういうことだと理解している。

私が絵の中で細かい操作盤やオペレーションディスプレイの類を書き込むときはそういう怒りを込めながら描いているということなので、そういう絵を見かけたら「ああ、ムカついてたんだな」と思ってください。私はお察しの通りSF作品のUIデザインに付いては一家言あるタイプなのだが、自分のデザインセンスが優れていると言い切る自信は無い。が、少なくとも努力はしている、とは胸を張って言える。

今日の記事を描いている最中に色々ググって調べてみたが、「SF映画のタイポグラフィとデザイン」が邦訳されて出版されていた。このブログは何年か前に偶然見つけてことある度に本ブログでも言及してきたのだが、書籍化されたことも知らなかったし邦訳があったことも知らなかった。これは絶対に買わねばなるまい…と即注文した。