なぜ人を殺してはいけないのか

あけましておめでとうございます。

ブログのアクセス数を見ると昨日からアクセス数が急増してました。私のブログは仕事中、平日に閲覧される傾向があるので4日から仕事始まりの人が多いみたいですね。

さて、今日の記事は「なぜ人を殺してはいけないのか」です。

こういう記事を何個も書いた気がしますが、検索してみたら一個も無かったですね。他の記事で似たようなことを書いてるかもしれませんが、全部一から書いてってみましょう。

なおいつもの通りこれはあくまでも私の考えであって、他の考えを認めないとかこれが正解であるとかいう主張はしませんし、なにか文献にあたるなどして正確性を担保する努力をしたというわけでもありません。ええっ、そうなの?駄目じゃん。と思う人は個人ブログに期待をかけ過ぎです。よろしくおねがいします。

なぜ人を殺してはいけないのか

戦争で人を沢山殺せば英雄となるが、平時に人を殺すとほとんどの場合重罪となるのは何故か?

こんな事を中学の社会の時間で議論した記憶がある。その時の自分はこう答えた。

「人殺しが善か悪かは社会が決める。戦争大好きな社会主義国家や国家総力で現在進行系で戦争してる国家ならば善とされるが、平和なときは悪とされることが多いだろう」と。

この回答が当時先生によく褒められたので記憶に残っているが、今考えるとじゃあその社会なる存在はどうやって善悪を判断してるんですか?というところに一定の答えが無いとこれも回答になってないよね、これは現状説明だよね。まあでも中学生の段階で善悪や正義と悪は絶対的なものではなくて周りの人によって決められる相対的な価値観であると気づけたあたりは褒めてやろうかな、ということを面倒くさいオタクの顔で現在考えてる次第です。

そういうわけで、上記の回答は正確な回答とは言い難い。大人になった私がその回答に補足するならば、

「人はなるべく死なないほうが良い、人が死ぬところはあまり見たくないという個々人の嫌悪感や恐怖が人殺しに対する忌避感情を想起させそれが社会上の合意となっている。戦争は人殺しが許容されているように見えるが、厳密には一般的な殺人とは異なるので殺人はよくない、という思想と矛盾しない」

になると思うな。今回はそのあたりを考えていきましょう。

なぜ人を殺してはいけないのか?

ずーっと考えてるが、この理由は「考えている人が人間だから」以外に無いと思うんだな。

人間だから、他の人間が死にそうになったり死んでいるのを見ると自分もそうなるかもしれないという想像力を想起させるんでしょう。自分は死にたくない。だから人間が死んでいる姿はあまり見たくない。自分と同種の生物である人間はなるべく死なないほうが良い。これ以外に根源的な理由は無いように思いますね。もっとも、これも「恐らくみんなそう思っているだろう」という推測であって当然そう思わない人は沢山居るでしょうし、また、科学的にそれを裏付ける術もありませんが。

ほとんどの人間は死にたくない。だから、他の人間が死んでいるのを見ると不快に感じる。不安、恐怖、悲しみ、哀れみといった感情が想起される。だから人はなるべく死なないほうが良いと考える。

特に悲しみ、哀れみは人生経験が増えるにしたがって増えていく。自分が辛かった経験、悲しかった経験が共感を呼び起こして人はなるべく死なないほうが良い、という思いが強くなっていく。自分は死にたくない、それと同じように大切な人は死んでほしくない。場合によっては自分が死んでも大切に思う人を助けようともする。しかし自分を含め、やはり人間はなるべく死なないほうが良い。その根底にある考えが言動に現れ、政治に現れ、重要法案の審議に関わり、法律が出来上がっていく。その漠然とした価値観が国家のイデオロギーを作っていく(民主主義国家では)。

なぜ戦争では人殺しが許容されるのか?

戦争で人を殺しても良いのか?に類した議論はたまに目にする。こないだもジャニーズが大戦期の元パイロットにインタビューして「米兵を殺したという実感は?」と尋ねたことで炎上していた。SNS上の批判としては「当時はそういう時代だった。鬼畜米兵を殺害して国家を守るのが若者の役目だった。今の価値観で米兵を殺すのとは感覚が異なる」という趣旨の内容が多かったと思う。

そういう批判が多かったので多くの人はそう思っているのだと思うが、私その議論の脇でひとつ疑問がのこる。「当時と今の感覚や価値観は違う」これはそのとおりだろう。しかし現在でも戦争は発生し、人は死んでいるのである。たとえばこないだのナゴルノ・カラバフ戦争でアルメニアの兵士に「アゼルバイジャン兵を殺してしまったという実感はありますか?」とジャニーズがインタビューしたら多くの人はどう思うのだろう?意地悪な質問かもしれないが、自分はそういうことに興味が出てきてしまう。

なぜ戦争では人殺しが許容されるのか?その私の回答としては、「現代では戦争であっても人殺しはそもそも容認されていない」だと思っている。

一般に戦争にはルールが無く何でもありの世界と思われがちだが、実際はある。ジュネーヴ条約、ハーグ条約、オスロ条約、オタワ条約などといった各種取り決めによって、傷病兵や捕虜の取り扱いがなるべくマシになるように規定されていたり、非戦闘員(文民)への被害を避けるための条項があったり、不必要に残虐な兵器の所持・使用が禁止されていたりする。

たとえば病院船は攻撃・拿捕してはならないとなっているし(そのため病院船で武器弾薬や兵士を輸送したらこれも違反となる)、捕虜は虐待したり殺してはならないとなっている。残虐であったり民間人への被害も懸念される兵器は所持や使用が禁止されている。生物兵器、化学兵器、クラスター爆弾(多数の子弾をばらまく爆弾)、対人地雷、ダムダム弾(人体の中で裂けて傷口が大きくなる弾丸)、視力を奪うレーザー兵器など。

ちなみにハーグ条約は第一次世界大戦前からあるので、大戦期は無法だったというわけでもない。

これら条約に批准しておきながら破った場合は裁判が開かれて責任者が裁かれることになる。皆さんご存知のように有耶無耶になってしまう例も沢山あるが…

人を殺してはいけない。人を殺したら裁かれる。これは戦時も平時も共通している。戦争目的を遂行するために裁かれる要件が非常に下がるだけである。(これを「皇国の守護者」では「戦争と平時の違いは一つだけで、普段高値で売られている品物が廉売」されると表現されていた)

これらの条文を読んでいくと、一貫して「戦争で人が死ぬのは仕方ないにせよ、なるべく死ぬことや不必要な苦痛を感じさせることがないようにする」という根本的な思想が読み取れる(と私は解釈している)。

国家の戦争目的の遂行のためには、脅威、具体的には敵国の軍隊を排除せねばならない。その過程で人が死ぬのは仕方ないが、人に苦痛を与えたり関係ない民間人を無闇矢鱈に殺害するのは止めましょうねということだ。

アメリカの兵士だったか警察だったかのインタビューが記憶に残っていて、その人は「相手を殺害することにためらいはないのか」と問われ、多少苛立ちながら「我々は脅威を排除したに過ぎない」と答えていた。

脅威を排除し、その過程で人が死んだ。これとその人を殺そうと思って殺人した、という間には非常に重要な違いがあると個人的には思う。

なぜ死刑制度は反対で車を運転するのは良いのか

はてな匿名ダイアリーで「冤罪の可能性があるから死刑は廃止すべきという話があるのに交通事故死する可能性がある自動車を使っているのは矛盾である」という話を見た。

人の命が奪われてるのに車を許容する社会

私に言わせれば死刑制度の廃止と交通事故死の可能性がある自動車を使うことは矛盾していないと思う。どちらも人があまり死なないようにする、という基本的な価値観では共通しているからだ。

重大な犯罪を犯した人であっても冤罪の可能性が少しでもあるならば死刑にすべきではない。私はこの議論に反対も賛成もしないが、しかし主張の意味は理解している。突き詰めていけば、「真面目に生活していたのに冤罪によって死刑になり命を奪われる」という漠然とした不安が一個減るということなのだろう。

自動車に関しては自動車メーカーが死亡事故をなくすために努力しているのは広く知られている事実である。自社が製造販売した製品によって人が死んでいるのを少なくとも自動車メーカーは容認していないし、社会的責任があるとみなされている。だから、自動車メーカー各社は死亡事故を減らすためにシートベルト、エアバッグを装備させ、先進安全装備を開発し、歩行者用エアバッグ、歩行者保護のためのボディを開発している。

国家としても安全装備の義務化や補助金制度などを通じてより安全な車を普及させるよう努力している。

それらの結果が実を結び、本邦において交通事故死者数は近年はほぼ単調に減少している。

それでもゼロではないのだから即刻やめるべきだと言いたいのかもしれないが、もしそうだとすればあまりにも理想主義が肥大化してしまっている。ユートピアが実現されていないから不満だ、と言っていることと同義だと思う。ユートピアになってないから駄目っ!とか言われてもしょーがねーだろ、人間社会はまだまだ赤ちゃんなんだから。

現代の人間社会はおよそどの国・地域においても自動車輸送が代替できない物流の要を担っている。

自動車が使えなくなったら残る物流は船舶・航空機・鉄道になる。これらはいずれもその運行路線が限定されるので末端の消費者に行き渡らせることはできない。すべての農産物・海産物・工業製品を手で貨物駅や港、空港に運んでいって物流業者や消費者が最寄りの貨物駅から台車で製品を運ぶ…なんてことなどできるわけがない。現在の生活レベルと人口を維持するために代替不可能な仕組みは色々あるが、自動車は確実にその一つである。自動車を廃止したら物流は瞬間的に危機に陥り、たくさんの人が死ぬ。

現在の生活レベルと人口を維持するために交通事故被害者は犠牲となっている、とも言い換えることができるかもしれない。1人死ぬか5人死ぬかのトロッコ問題で現代社会は1人死ぬ方を選択している、ということになる。

それは不正義だ、一人も死なない技術を開発し、一人も死なない社会を目指すべきだ、と言われるかもしれない。それは理想郷を目指すべきだ、という意味においては同意する。一人も交通事故で死なない社会にならなければならない、と先進安全装備関連の技術開発を仕事にするならばそれもとっても殊勲なことだと思う。ただ、今自動車を使用することが悪だとそれだけ言うならば、それはやはり理想主義的すぎるとしか言いようがない。

なぜ重病者を税金で生かすのは良しとしてワーキングプアを放置するのは良しとするのか

キャッチボールができない君と歩んだ “9時間16分55秒

「言い方は悪いですが、重い障害を持った方は、一生税金頼みの生活です。一年でどのくらいのお金がかかっているかわかって生活されていますか。一生懸命仕事をして、それでも生活がかつかつであると、とても不公平を感じます」

こういった意見もよく目にする。

前項の主張はあまりにも理想主義的な考え方であったが、本項のそれは逆にあまりにも現実主義的な考え方(というか単に短絡的な考え方?)であると思う。

重い障害を持って働けない人、路上生活者、2型糖尿病、戦地を取材して敵対勢力に拘束されたジャーナリスト。度々こういう人たちに「金を使うな」という議論が巻き起こる。

理論的に考えれば今後国家や社会に対して生み出せる富の量よりも消費する富の量の方が多い人たちに限りある税金を使うことは得策ではない。ましてやその金というのは我々が支払った血税である。そんなものに莫大な金を使うのなら払った税金を返してほしい。そう言いたいのかもしれない。

ただ上記の議論には重大な見落としがあって、我々は人間であり消耗品ではないということだ。

消耗品であれば利益を生み出さないからメンテしなくてもいい、で良いかもしれない。しかし生命を有した人間である限り、そこには尊厳が発生し、むやみにその命を奪うことはできない。救える命があれば救うべきである。それが民主主義的な国家に共通して現れる基本的な思想である。その根底にはやはり「人の死への嫌悪感」があるのだと個人的には思う。人は人であるかぎり、なるべく人らしく生きなくてはならないのだ。その基本的な考え方で社会が成り立っていると言っても過言ではないと思う。

なぜそう言えるのか?社会に対して生み出す富よりも社会から受ける富の方が多くなって損益がマイナスになったら一切の社会的補助を打ち切る、そんな国家で生活したいのかもっと想像力を働かせて頂きたい。あなたが明日交通事故に遭って仕事ができなくなる可能性はゼロではないのである。

もし先天的障害がある子供が生まれたとしても国家は一切補助しません。死ぬまで夫婦で面倒をみてくだい。健康保険も適用になりません。回復の見込みが無いので。そういう社会だったらどうですかね。あるいは、子供を育てている最中にインフルエンザにかかり脳症を発症し、後遺症が発生し24時間介護をしなければならなくなりました。共働きでなければ生活できない?そんなことは知りません。24時間介護が必要な状態ならば将来働けないので国家は一切援助しません。そういう社会ならば、子供を生み育てるというのは大変なリスクでしょう。私だったら絶対に子供を育てるという選択はしません。それでいいですかね。

そもそも何を持って「助けるのが得か損か」を判断するのでしょう。誰がどんな基準で?そしてそれを明文化したところでちゃんと運用されますかね?

たとえば交通事故に遭い後遺症が残ってリハビリ中であり、もう数ヶ月治療すれば確実に復帰できる見込みである。そういう時に「あなたの後遺症は仕事ができるレベルまで治療できないと認められたので一切の社会保障を打ち切ります」という通知が届く。確かに法的には自分の障害は社会保障を打ち切る基準であったが、特別な例であるから打ち切らないで欲しい、というのを自由に動かない体を引きずって市役所まで行って窓口で嘆願したり、その基準に当たる当たらないを争点にリハビリを続けながら市町村を相手取って弁護士費用を払って裁判を始める…。そういったことが容易に想像つきますが、そんな社会であってほしいですか?

社会に対して富をもたらすことが平均に比べて困難であって、収支がマイナスである人なんてそもそも日本国内で普通に働いている人たちの中にも沢山居るはずだ。私だって支払った税金以上の公的サービスを受けている(多分)。であるならば、重い障害を持った子供への公的福祉支援が打ち切られるとき、我々中流所得帯の市民の社会サービスも何らかの制限を受けなければ論理が一貫しない。

「重い障害を負った子供でも、幸福を追求して生きていける」、これは我々の希望と言い変えても良いと思う(そういう表現は失礼かもしれないが)。我々は人生でどれだけ失敗しても、どんだけ身体的な障害・経済的な損失を受けようとも、収入が無くてもなんとか家と飯が用意される、病気になれば医者にかかって生きていける制度が整った国に生きている。これは大変素晴らしいことで、この部分はぜひとも維持すべきものだと個人的には思う。そのためには例外なく維持できる命は維持しようとする姿勢が必要である。例外なく、が大事ですよ。

社会制度上のメリットでいえば上記のとおりだが、そもそも我々は前述したとおり理想郷を目指さなければならないと思う。少しでも人間社会がマシなものになるために。理想の姿に近づけるのを諦めて放置してしまったらそれ以上良くならない。人任せにして文句だけ言ったらそれは単なる愚痴である。

つまり、

「一生税金頼みの生活をしている障害児がいる一方で私が一生懸命仕事をして、それでも生活がかつかつであると、とても不公平を感じます」

これはコメントした人の不公平感というお気持ちを表現した愚痴である。ネット上に晒す愚痴は多数の見ている人に不快感を与えるかわりに言った人がほんのちょっとだけ楽になるだけの、トータルで見たら圧倒的にマイナスな行為でなんら建設的ではない。

コメントした人の考えに合致するかどうかはわからないが、こう言ったほうが良いと思う。

「障害者であれ病人であれ健常者であれワープアであれ金持ちであれ、全員がニコニコ笑って生きていける社会にすべきである。そのために所得格差をなくし、社会福祉をもっと充実させるべきである」

これならばもっと再分配して平均的にみんなが幸せになるような社会が良いよね、という意思表示をしているので愚痴ではなく、より建設的な議論に発展させることが可能であるので異議があると思う(たとえ議論にならなくても、理想はこうだよねと共有することに意味がある)。

まとめ

私がもっとも世間の中でああだこうだ高邁な言論をSNSで表現して下さる皆様方に対して言いたいのは、そんなに現実は上手く出来ていないということである。その一方で金に関しては命の重さが軽くなる方向に向かうような、あまりにも現実主義的な考えが沢山投下される。

人殺しは良くない。生きとしいけるもの全員が幸せに生きるべき世界であるべき。国家はそうなるように努力すべき。それはそのとおりです。

争いが皆無で個々人が何ら嫌がらせを受けること無く、やりたいことを表現できる、朝はおはようこんにちは、夜はカレーを食って暖かい布団で全人類が眠る、子供も大人もおじいちゃんおばあちゃんもみんながニコニコ笑顔、おせちも良いけどカレーもね。我々が目指すべきユートピアはそういうものではあります。が、そんな世界はありません。恐らく未来永劫やってこないでしょう。自由を重視すると他人の自由と干渉します。そしたら争いが発生します。だから何かしらの制限を加えるか、思想や価値観を統一させる必要があります。これは自由の重視と矛盾します。だから自由を基礎とするユートピアは実現しないと個人的には思います。

しかしながらそれでも我々はありえない理想郷を目指して生きていかなければならないんですね。少しでも世間をマシにしましょうという涙ぐましい努力なのです。

そしてその理想郷に近づける努力は美しく高尚なものであり、全人類が参加できる平和的なプロジェクトだと思っておりますが、SNSに垂れ流されている言説を見ると「理想郷になっていないから駄目」とでも言いたいのでは?と思ってしまうんだな。

お前の思う理想郷は無い。未来永劫来ない。まずそれを受け入れましょう。しかしいま現状の状態からどこまで近づけていけるか、近づくために個々人が何をできるか。あるいは、全員が納得できる最大公約数的な理想郷とは何か。それを考えるべきですね。

その思考の結果として戦争は人を殺しても全然オッケーな世界だとか自動車をぶっ壊せとか糖尿病患者は健康保険非適用としろ、などという高邁な言説が投下されたのだったら「ううむ、なるほど」と私も一考してみるものの、そうでなければ単なる愚痴だな。愚痴はマジでパブリックに公開して良いものではないんですよ。愚痴はパブリックに書いても本当に良いことが何も無いんですよね。

愚痴りたいときは信頼できる聞き上手な人にしておきましょう。私が話聞いてあげますよ。うんうん。それは辛いよね。とんでもないよね。てかLINEやってる?どこ住み?何歳?