政治不信、企業不信から科学不信へ

最初に断っておきますがこれはクソ記事です。クソ記事なので捨てようと思いましたが、そうやって更新頻度が落ちるということを鑑み、とりあえずクソ記事でいいから更新することを続けようという趣旨の元、公開します。

前回の記事からの続きっぽい記事です。

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前回、打ち水の効果を測定した論文をいくつか引用し、それを元にTwitterで述べられているいくつかの論への反論を示した。

Twitterで「打ち水 逆効果」などで検索してみると、いろいろととんでもない話が出てくる。その多くは科学的な根拠が無いか、あっても間違っているものがほとんどだった。あくまでも私個人の印象であるが、「オリンピック関連の数々の施策に日本政府と東京都は失敗し続けて精神論をゴリ押ししている」「打ち水というのも精神論の延長」という論調が全体を占めているように思う。実際、オリンピック界隈のニュースはいい話を聞かないのでここまでの論ならば私もまぁ半分くらいなら納得できるところはある。

しかしながら、ここからさらに「打ち水の効果を都や国に伝える専門家を説得させるにはどうするか」「今どき打ち水の効果を信じている専門家はアホ」という議論をしている人がちらほらおり、私はちょっと怖いような気持ちを抱いた。

そもそも、「打ち水」という気化熱による周辺大気、地表温度の低下を狙った効果は純粋に科学的な思考に基づく行為であり、信念によって行うものではない。専門家だって、一般的にその分野に精通した科学的な知識を持った人を指すのだから、専門家が行政機関に助言をする場合は普通に考えたら科学に基づいたことを言っているはずだ。

しかし、稀に科学的な知見に基づかない憶測を垂れ流す専門家や、間違った事を広める専門家がいる。昔正しいとされていたことがその後の研究によって覆されることもよくある。しかし、そのときの反論の手続きもまた科学的なものによるべきである。例えば「打ち水には効果がない」という反論をするならば、そのような(再現可能な)実験結果を提示したり、効果がないことを定量的に示さなければならない。「湿度が上がるから体感温度も上がるので逆効果」という論は一見科学的ではあるものの、何らの量も示されていないので、その論の検証は不可能である。検証が不可能な論は科学ではない。

しかし、多くの人は「打ち水には効果がない」という事を信じる。なぜならば、その背景には「政府や行政機関を叩くのに都合の良い説を信じたい」という背景があるからではないかと私は考えている。

科学とは、宗教や人種を超えて皆が確実に納得でき、再検証可能な形で体系化していったものである。人類がアリストテレスの時代から構築していったその資産を「私が信じたい事実と違うから」みたいな理由で懐疑的に思うのは私はおかしいと思う。科学は信じる・信じないとは別物であって、事実とそれを説明するモデルの積み重ねである。信念だとは無関係だから、宇宙人とだって同じ科学体系で会話することができるはずだ(単位その他の変換は必要になるだろうが)。もし科学よりも信念を重視するなら、魔女裁判をしていた時代に逆戻りということである。

私はつい最近までこのような状況を全く知らなかった。それは、私がTwitterで自分のTLしか見ていなかったからだ。

このあたり、Twitterをやっていない人のために説明する。Twitterは短文を投稿するサービスで、自分が「フォロー」したアカウントの発言のみが表示される仕組みになっている。私は理科大好き人間なので、非科学的な事を言うアカウントはフォローしない。かつ、私は普段フォローしている人の発言しか見ない。ということは、必然的に「まともな人が集まるSNS」になってしまっているということである。このように情報の取捨選択できるのはSNSの基本機能と言って良いと思うが、その結果、妙な事を言うアカウントが目に入らなかった。だからこの惨状(と私は思っている)は最近になって知った。

SNSはフェイクニュースの温床と言われる。それはそのとおりだろう。自分の頭でネット上の情報の真偽を判断する能力に欠けた人が、自分の信じたいことを言うアカウントだけを取捨選択して世界を形作るのだから。そうして、それぞれの属性や願望に応じて緩やかにクラスターが形成され、緩やかに隔絶された世界が構成されていく。

2010年代での世界的なトレンドの一つは、政治不信、企業不信であるとおもう。一部の権力層や富裕層が富を独占し、一般ピープルたる労働者は彼らのシステムに組み込まれ搾取されるという考えを持つ人が増えた。そして、それが今は科学、もう少し広い言葉で言えば学問を脅かしている。人々は専門家の言を信じず、自分が信じたいことを発信する著名人を信用するようになった。そこで自らの頭で考えた判断は存在しない。私は信じたいからこの人を信じる。それだけである。科学はガン無視で新年だけがそこにある。

私は5年前に下記のような記事を書いた。

アルビン・トフラーからYoutube、そして「デマ」

トフラーは言った。

「21世紀の文盲とは、読み書きできない人ではなく、学んだことを忘れ、再学習できない人々を指すようになるだろう」

この予測は当たっているように思える。何かの言語を読み書きできても、自ら学んだ知識を活かすことが出来ない人が山のように連なっているように思える。教養は21世紀の言語だ。