我々は体験に金を払っている

タイトルのようなことを最近よく思うので書いてみる。

一応前回の記事の続きでもある。

ハレとケ

柳田國男は日本人の世界観について特別な行事などを指す「ハレ」と日常的を表す「ケ」を定義した。私は似たような概念がお金を支払う行為にも存在すると思っている。

たとえば、米や洗濯洗剤、ティッシュなどといった日常的に必要となるものを購入する。それはケだ。対して、旅行や外食、または何か生活の質を向上させる特別な家電製品などを購入する、それは「ハレ」になると思う。ティッシュを買うという行為と旅行をするという行為は、その金額以上に違うところがあるはずだ。

米や洗濯洗剤を買ったとしても我々は別段なんの感情も抱かないが、たとえば60インチの液晶テレビを購入したら何かしら気持ちが高ぶるだろう。非日常である。

我々はなぜ非日常を求めるのかと言えば、簡単に言えば贅沢したいという気持ちがあるからである。毎日毎日納豆卵ごはんを食うのも良いが、たまには回る寿司屋もしくは回らない寿司屋に行きたいと思うだろう。毎日学校や会社と家との往復ではなくて、どこか遠い異国に旅してみたいと思うのも贅沢したいからだろう。

この贅沢というのは抽象的な概念である。何をもってして我々は贅沢と定義できるのだろうか。これは難しい概念だと思う。たとえばランドマークタワーの上階にあるレストランで食事をしたとする。それは普段、ワンルームアパートに住む地方の大学に通う学生にとってみれば新たな発見かもしれないが、タワーマンションから東京タワーとスカイツリーを眺めつつ、ちょっといいワインを飲んでいるような暮らしをしている人にとっては大した体験ではないだろう。贅沢というのは相対的な概念だ。

私は、この贅沢の本質は「体験」と同義だと思っている。貧乏人がランドマークタワーに登ってワインを飲みのみ夜景を眺める体験は普段あまりないイベントだから、それは新たな体験、エクスペリエンスである。だからお金を支払っても良いと思う。しかし、タワーマンション住人みたいな人が、わざわざ高いところにあるからといってお金を出すことは無いだろう(少なくとも非タワーマンション住人と比べたら有意差があるだろう)。そして、金持ちであろうと貧乏人であろうと中々体験できない行為、たとえば宇宙旅行なんかは大体同じくらいの価値を感じるのではないかと思う。

これは家電製品でも同じだ。私たちは家電製品やモバイル機器を買い換えるとき、新たな機能、新たな性能を求めようとするときがある。これは究極的に言えば今までにない体験を求めているからである。スマホでもきれいな写真を取りたい、かわいい見た目のスマホを持ちたい、ハイスペックでぬるぬる動くスマホが欲しい。そういったものは全て新しい体験である。

日常生活に最低限必要な日用品でないものを買うとき、我々は何に対してお金を支払っているのかというと、それは「体験」に対してお金を支払っているのだと私は考える。

ユーザーエクスペリエンス

5〜6年前くらいから、ITの世界では「ユーザーエクスペリエンス」という言葉がよく聞かれるようになった。古くからこのような概念はあり、ISOにも定義が存在し、それによると「製品、システム、サービスを使用した、および/または、使用を予期したことに起因する人の知覚(認知)や反応」とある。これを持ってして、「UXデザイン」などという言葉が流行り、その実はユーザーが操作をするたびにインタラクティブにアニメーションなどが表示されたりするような、何がUXデザインなんだか良く分からないような印象を受けたのだが、これも今考えてみるとどこか素っ気なくて面白みに欠けるWebの世界に新たな体験をもたらしたいという願いがあったのではないか、と私は解釈している。

贅沢が新しい体験を意味するならば、例えば旅行などは数多の新しい体験に富んでいる。特に海外旅行ともなれば、言語も文化も全く異なるわけであるから、そこで得られる新しい体験は非常に多岐に渡るものになる。我々は何万円、何十万円というお金を支払って海外旅行に行く。海外旅行に行って直ちに何か具体的なスキルが身につくわけではない。同じ金額を払えば便利な家電製品だって買えるかもしれない。しかも家電製品は旅行と違って形に残り、耐用年数に達するまでは何度でも使用できる。投資に回せたば数年後にはお金が増えているかもしれない。

それでも人々は旅行にお金をつぎ込む。それは「体験」で比較すれば家電製品を買ったり金融商品を購入したりするのとは全く得られるものが段違いに変わってくるからだろう。

価値観によっても異なる体験

私は度々このブログで「コスパが大事」だと述べている。しかしながら私自身、「コスパ」を述べるときに大きな違和感を感じていた。私は考えるコスパと読者の方々や他のSNSで述べられるコスパには隔たりが感じられた。それは「パフォーマンス」が何か、を定義せずにコスパを論じてしまっていることが原因であった。

例えば明確なスペックで比較できる、パソコン用のCPUやGPU、ストレージドライブなんかはベンチマークその他の指標を基準にすれば、明確にコスパを定義できる。しかしながらこれが車や家となったらどうだろうか。人はそれぞれ重視するポイントが異なっている。例えば私が家を建てる時に考えた「コスパ」とは、「最小のトータルコストで快適な室温を一年中維持できる家」であった。その考えのもと行き着いたのが一条工務店であった。

しかしながら万人がそんな評価軸を持っているわけがない。ある人はおしゃれな家に住みたいと思う。友達を呼んでも恥ずかしくない家を、と、凝った造作の家を建てたがる。そういった人と話しているときに、同じ「コスパ」を唱えても話は噛み合わない。なぜならば私にとってのパフォーマンスは住宅性能で、おしゃれな家を建てたいと考える人のパフォーマンスは営業のプレゼンであったり、自分好みのおしゃれな家を実現するための多様な選択肢であるからだ。

この2つの価値観はどちらが正しいとかいう話ではない。人間の価値観とはそもそも多様であるというだけの話だ。

これをここまでの「新たな体験」という話を踏まえて考えると、人間はただ単に新しい体験を求めているわけではなくて、そこには一定の主義や趣向が存在するというわけだ。だから、先に「旅行は新しい体験に満ちている」という論を展開したが、だからといって世の中のありとあらゆる人全員が旅行が好きなわけでは無いというのも納得できるようになる。

価値観でバイアスされたユーザーエクスペリエンスベースのコストパフォーマンス

なんだか横文字ばっかりで胡散臭くなってきたけどちょっと我慢して欲しい。

ここまでの話をまとめると、

  • 人は「体験」にお金を支払う
  • 「体験」が多いほど人は価値を感じる
  • 「体験」に感じる価値の大きさは個々人でバイアスがかかる

ということになる。

私が主張したいのは、我々が贅沢な物品やサービスに対してお金を支払うとき、「それはどんな新しい体験を自分にもたらすか」を注意深く考えたほうが良いのではないかということだ。そして、「コストパフォーマンス」を論じるときは、それがCPUやストレージのように何かの指標で簡単に定義できる場合を除き、価値観でバイアスされたユーザーエクスペリエンスベースのコストパフォーマンスとして論じるべきだと私は思う。

だから、家の例で言えば「おしゃれな家を建てたい」という人に対して「家は住宅性能だよ。デザインで決めたら後で公開するよ」というのは価値観によるバイアス分が考慮されていないから適切なアドバイスにはならない。また例えば、「SUVを買ってキャンプをしてみたい」という人に対して「SUVなんて高くてでかくてタイヤが高いだけの乗り物だよ。安めでコンパクトなハイブリッドカーを買うのが一番かしこい選択だよ」と言うのも、「体験」を一切無視したアドバイスだから、これも適切ではないということになる。

私はブログを続ける上で、何かを評価する際は常にこれらの点を考え、多様な意見を尊重したいと思っている。価値基準について明文化しろと言っているのではなくて、文章全体からこの人はどういう観点で評価を行っているのかというのが読み取れるような記事を書きたいということである。

自動車のレビュー

このブログでも何度か述べているが、自動車の評論やレビューは以上のような議論を軽視したものが非常に多い。大体が走行性能に重点を置き、高級外車を褒め、日本車は駄目だという。「車が無いとデートも出来ない」みたいなバブル期はとうに過ぎ、沢山の人が車に興味を失っている時代に、昔ながらの価値観で走行性能や質感に比重を置いた評論を展開して喜ぶのはおっさんだけである。

私は車が好きで、もっと自動車というカテゴリが広く盛り上がって欲しいと思っている。そうしたときに、こういう「古典派」とも言うべき古臭い価値観が邪魔をすることがある。車に興味が無い人たちに走行性能がどうとか述べて理解できるわけがない。走行性能は重要だが、現代の自動車は走行性能以外にも多数の付加価値や評価軸が存在する。しかし自動車評論家の多くはそれを理解していない。

そしてまた車自体の評論も大事かもしれないが、そもそも「車を購入することでどういった体験が得られるか」も積極的に紹介しなければならないと考えている。自動車は本来人や物資を輸送するための乗り物であるが、それだけではない。車はもっとたくさんの体験を提供できる機械だということを理解してもらえれば、もっと自動車というカテゴリは賑わうと思っている。

では私はなぜ自動車業界をもっと盛り上げ、色んな人に興味を持ってもらいたいのかと言うと、それは単に私が車を好きだからである。