【ウィッシュリスト】高校の時の話

ウィッシュリストから頂いた酒をのみつつ書いた記事です。

今回飲んだお酒は3月5日に頂いたものでした。もう一ヶ月以上経ってますね…。ワインだと勿体無いから寝かせて後で飲もうと時間が経ってしまいます。今回も、これを残しておいて別途自分で買ったワインから消費していたので記事を書くのが遅くなってしまいました。

さて、今回は「車、子育て記事中心にいつもブログ楽しく拝見させて頂いております。これからも応援しています!」とのメッセージを頂きました。ありがとうございます。

今回のスパークリングワインはぶどうの味が強いですね。あんまりゴチャゴチャした味や匂いが無く、くどくもなく、すっきりとしてかなり飲みやすい部類なのではないかと思います。高等なワインがダンディーなおじさんとすると、これはウォーターボーイズ時代の平山あやって感じですね。透明感を感じます。あの頃の平山あやが好きだったけど、いつの間にかテレビから居なくなってた。甘いものと合いそう。チョコ食べたい。

なんというか、やはりこうしてメッセージ(今回の場合は贈り物まで)を下さる方というのは、私との共通項が二つ以上ある人が多いなぁと思う次第です。当然かもしれないですが、人が親近感を感じるのはその人との共通部分が多い場合ですよね。私の経験ですと、Twitterのフォロワーの方などを見るとプログラマ+子供、子供+車という組み合わせの方が多いです。

あとここでちょっと話題が出たのがTwitterですね。なんか、私はフォローされてもフォローし返さないタイプなのですが、その理由の一つは相手がどう思ってるか分からないということですね。相手は動物園で「ほほ、猿がサル山で威張っておるわ」的な感じで私のブログを見ているのかもしれず、であるからサルの行動をブックマークしておきたい、であるがためにフォローしたのかもしれず、そこで私(サル)がフォローし返してきたらどう思いますか?うわっ、サルが喋った!みたいな未知との遭遇になるんじゃないか。そんな気がしてきます。

でもまあ、前にも言った気がしますが、私も交流したくないわけではなくて、むしろ交流したいというか、もっと言えばそういう属性が共通する人たちが集まってキャンプやるようなイベントを開きたいなと思うのですけど、思うだけで行動に移さないのでだからお前はいつまでも根暗なんだ、誰もお前を愛さない。みたいな、そんな気持ちになってます。よく分かんねぇ。書き始めて数分ですでにちょっと酔ってます。

冒頭で平山あやの話をちょっと書きましたが、あの頃は平山あや好きでしたね。その前は釈由美子が好きでした。どちらもマガジンのグラビアあたりから始まったので知ってるんです。しかし平山あやは消え、釈由美子はサイボーグみたいになったので、こう、時の流れって残酷ですね。と思う次第であります。

なんとなく酔っ払うと昔の話をしたがる癖があるので、今回も高校生くらいのときの話をしたいと思います。なんどかブログにも書いた気がするので、知ってる人はまたかよって感じかもしれませんけど。

私は秋田県の県立普通科高校に入学・卒業しました。本当は中学生の時は工業高校に行きたかった。工業高校に行ってバリバリ1年生から情報系の実務的な知識を得て、将来的には高専などに進学してプログラマかセキュリティエンジニアかネットワークエンジニアになりたいと思っていた。とにかくコンピュータに触れたかった。一日中触れたかった。

であるから私は「将来はパソコンを扱う仕事をしたい。ついてはこの工業高校に進学したい。よって合格圏に確実に入るために塾に行かせてくれ」と申し出たところ両親が激怒、「金払わねーと高校いけねーんだったらX高校へ行け!!!!」と開口一番突き放された。X高校とは何か。X高校とは地元でも「名前を書けば入れる」と噂の底辺校である。事実、中学三年生にして正負の数の概念が皆目理解できない友達や、ヨーロッパの首都はロンドンだと答える友達、九九の七の段が言えない友達がこぞって入学して一度も留年せず卒業した高校である。売り言葉に買い言葉というのだろうか、私はそこでブチ切れ、「わかったよ!じゃあX高校に入るわ!!!」と宣言、その後勿体無いと思った母親が「本当にX高校で良いのか」とそわそわ聞いてくるのにホトホト呆れ果てた私は、もうこの人は教育に金を投資するのが嫌なんだな、そのくせ常日頃から公務員になれ、公務員になって一生安泰生活をして親を安心させろ、みたいな都合の良いことを思っているのだな、と思い、すべてを諦め、すべてを呪詛し、X高校に入学した。でも結果から言えば、X高校に行ってよかったと私は思う。大事なのは環境ではなくてやる気だとよく分かる場だった。

高校は先輩全員が不良で核戦争後の北斗の拳みたいな世界を生きるタフガイに見えて恐ろしかった。実際、どこぞの駅で何某が殴られて病院送りにされただの、何某を殴って病院送りになっただの、私にとってはリアルウシジマくんみたいな世界だった。

その当時、秋田では「応援練習」なる古い慣習が残っていた。それが何かというと、野球の応援練習という名のもとに、強面の先輩がクラスを周り「お?声小さいんでないのかい?なめてんのか?お前なめてんのか?殺されてぇのか?」と下級生を怒鳴って脅してビビらせるという毎年恒例の行事であった。女子は女子で女のヤンキーパイセンから「おめー舐めてんのかぁー!!!」みたいに怒鳴られてた。一応は上限関係を教え、かつ生意気でいきがってる新入生を凹ませてその後の先生方の指導も楽にさせる…みたいな理由だったみたいだが、やり方がひどすぎる。今適当にぐぐってみたら、東北では結構やられてた行事みたいだ。

そういうことを経由して、英語はBe動詞から始まるし、数学は正負の数から始まるし、もう半端ねぇなこの学校、などと思いつつ1年半くらいを過ごした。この一年半ではずっとパソコンを触り続けていた。家に帰ってからのテレホタイム前後が全てで、その他の生活は学校を含めてオマケだった。そいで、2年生のときに例の事件があり、私はなんだかよくわからないけれど後悔しないように行動しようと心に決めていた。

しかしながら、卒業生の9割が就職、残り1割くらいが専門学校や短大へ進学、4年制大学に進学した人は近年では記録が無いという高校であった。X高校に来る先生も「進学校で教えるのにつかれた」みたいな先生が気休めで来るような高校だと先生自身が公言していた。と、書くとひどい高校のように見えるが、私の年代あたりからはほのぼの、こじんまりとして良い高校だったように思う。いじめで学校を辞める人がいたりはしたけど、総じて平和な高校生活だった。

そういえば、当時ちょっと好きだった女の子が居たのだけど2年生のときに高校をやめてしまった。他の女子と馬が合わなかったらしいということは聞いた。どちらかというとギャルに近いタイプの子で、とても友達関係に悩んで辞めるような風には見えなかったのだけど、まあ色々あったんだろう。最終的には保健室登校になった末に辞めた。私は以前から高校を止めるという話を聞いていたので、会うたびに「やめんなよ」と説得していた。保健室にも行って色々話をした記憶がある。

「学校やめんなよ」

「やめるよ」

「なんで」

「つまんないし」

「つまんねえのか」

「私ね、カレシいるんだ」

「いんのかよ、まあ居ても驚かないけど」

「SM乗ってんだ」

「え、SM?(ドキドキ)」

「SM-Xって車知らない?」

「何だ車か」

「今日も迎えに来てくれるよ」

「そうか」

「だから別に高校やめることに特別何か思ってるわけでもないし、寂しいわけでもないし」

「いや、中卒じゃまともな暮らしできんって」

「そういうの、もういいよ」

って感じでやめた。私は16歳だった。悲しかった。

私はその頃SM-Xがホンダの車だっていうことも知らなかったし、ベンチシートでフロントを倒せばフルフラットになるヤリ車だってのも知らなかった。カレシがどういうつもりで女子高生と付き合ってたかというのも想像できなかった。SM-Xなる響きは免許を取ってない私にとっては木製往還船にも等しかったし、お給金を貰ってSM-Xなる車を所有できるパイセンなる人種も未知なる高等生物であった。ちなみに後にトヨタが作ったbBはSM-Xのパクリだと思う。

今考えれば、あの時「SM-Xも先輩もどうでも良いよ、気に入らない女子が居るなら俺と遊べば良いじゃん」って言えればよかった。「中卒じゃ暮らしていけない」ってつまらない未来の話じゃなくて、今楽しくなる話をすべきだったのだ。彼女に必要なのは輝かしい未来ではなくて、今幸せに生きる術だったのだ。だから、私は今幸せと思える言葉を言わなければならなかった。彼女のためじゃない、ジャスト自分のために。ジャスト自分の自尊心というか自己満足のために。言えればよかったなぁと未だに思う。その結果フラレたとしても別にそれで良いんだ。当然、私にその子の人生をどうにか変えれたかもしれないというおこがましい考えも持っていない。しかし、そう少しだけ期待するところもあって、そういうところを含めて行動しないのは失敗だったとたまに思い出すことがある。後悔の残る人生にはしたくなかったと思う。私の人生は後悔が人より少ないほうだとは思うが、その数少ない後悔の一つだった。

私は、人間関係というのは個々人が最大の幸せを追求することによって全体の幸福が最大化するのではないかとすこし思っている。人間には幸い共感という心理反応があるために、自分がやって幸せなことを人にもしてあげたい、楽しいことはみんなでやればもっと楽しいと自然に思う気持ちがあり、そういうあたりを全体化することで、少なくとも数人〜10人くらいのミクロな人間関係はうまくいくんじゃないかなぁと漠然と思っている。

話を勉強に戻す。で、色々あった私は進学したいと思ったものの具体的な方法がわからなかった。原理的にはセンター試験と二次試験を受けてある程度の成績をおさめれば大学に入学できるわけだが、そんなことに対応できる先生は当時居なかった。当時、高校に居た先生はセンター試験の過去問が分からないと聞きに行っても先生も答えられないという有様だった。

そんな中でたった一人、「俺がお前らを大学に入れてやる」とやる気になったO先生が居た。その先生は英語の先生で非常に厳しく、「お前らは辞書の使い方が分からんから英語も読めないんだ!いいか!辞書っつうのはこう使うんだ!」と和英辞書の角で生徒を殴るような、熱血なんだかキチガイなんだかよく分からん人だった。

2年生の終わりのころ。いつものように授業でブチ切れ、「なんで分かんねぇんだ!お前らは!」みたいな感じになった。うわぁ。また始まったと思ったのだが、その日はちょっといつもとは違っていた。O先生は一転して暗くなり、ぽつぽつと話を始めた。

O先生はX高校には来たくなかったそうだ。進学校で沢山の生徒を優秀な大学に入学させたい。そう思っていたらしい。だから、X高校に着任してすぐ、他の高校への転属願い(そういうものがあるのかどうかは知らないが、そういう趣旨のことを言っていた)を校長に出したようだ。着任して早々に転属願いを出したり、元々の思想が「沢山の生徒を大学に入学させる」というだったり、そういう面で校長はじめ他の先生と衝突ことも多かったそうだ。そうして数年がたった後、生徒の中にもやる気のある人間がちらほら居るのを発見し、こういう学校だからこそ生徒を大学に入学させる価値があるのでは、自分がやる気のある生徒たちの受け皿にならなければならないという気持ちを強くしていったそうだ。

X高校に限らず、どんなにレベルの低い組織でも何人かは非常に優秀な人が居る。なんでお前こんなところにいるの?みたいな人が。X高校もそうだった。すごくよく勉強ができる友達が居た。「勉強できて進学したい奴が底辺校になんか行かねぇだろ」って普通の人は思うだろう。しかし、何の因果か、そういう人はどこの環境にも居るのである。どういう組織であっても、向上心をもって頑張っている人は居るのである。そういう人たちを引き上げたい、そういうO先生は立派だと思った。

しかしO先生がそのとき暗かったのは、ようやくそうして志のある生徒を集め、受験を想定した体制が出来上がってきた時期に他の高校へ転向することになったしまったのだそうだ。「転属願いを取り下げるのを忘れててなぁ…。対立してた校長に利用されちまったんだ…。だから今二年生のお前らを入試まではみれないんだ」と言っていた。えっ、お前のミスかよって私は正直思っていたのだけど、クラスの女子はじめとして多くの人が泣いていた。

3年からはH先生がO先生に変わって色々なことを始動してくれた。H先生はO先生とは真逆で、全く怒らなかった。そしていつも下ネタをしゃべっていた。授業中に「たたら製鉄の手法を学ぶ」などと称してもののけ姫を授業で視聴するような先生だった。男と女の産み分け方法とか、「天皇家は太鼓にあわせて腰を降って男児を産ませる秘伝の方法がある」などという都市伝説の類を嬉々と話していた。教えるのもかなり上手であった。

私は意地でX高校を選んだ延長で、親の言う「公務員になれ」も意地で合意し、文系として全く興味の沸かない社会科科目をひたすら勉強していたのだったが、大学に行くと決めたからにはやはり理系に行きたいということで、3年生になってから理系科目を勉強するという無茶苦茶なコースを辿った。三角関数知らなかったからな。

で、H先生はじめとする先生方は三角関数もしらないチンパンジーに1年間で微分方程式まで叩き込み、私はなんとか地方の公立大に滑り込みセーフ。今に至るというわけである。

ちなみに妻は高校生時代シノラーでした。

ここからは宣伝である。その後、就職後から今に至るまでの苦労話の類はひとつの本(電子書籍)としてまとめて販売する予定である。前の日記にも書いたが、原子力ルネッサンスだと原発がもてはやされていた時代に入社し、その後東日本大震災を経由してダメになっていく会社と共に過ごした数年間を綴った本にする。いつ書き終わるのか全く分からんけど、書いたら告知するのでよろしくお願いします。