最近、twitterで以下のようなツイートが流れているのを見ました。
「致死量の放射能を放出しました。」2011年3月18日の会見で東電の小森常務は、こう発言したあと泣き崩れた。 #NHKが報道しない事 pic.twitter.com/gUt43ldeFS
— brown sugar tart (@tart_k) 2014, 6月 9
デマと断じて良いでしょう。
原子炉に関係する仕事をしている人間であれば、「致死量の放射能」などという不正確な言い方はしないからです。
散々指摘されてきたことですが、放射能と放射線は違います。放射能は放射線を出す能力のこと、転じて、放射性物質のことを指します。上記の文脈では明らかに後者の意味でしょう。しかし、後者も本来は不正確な言い方です。正しくは放射性物質です。放射性物質を放出しました、ではなく、放射能を放出しました、と原子炉を仕事にする人間が言っているということにまず違和感があります。
さらに、あるレベルの放射性物質があったとして、それが致死量にあたるかどうかは、放射性物質から放出された放射線が、どの程度人体に照射されたかによってのみ判断できます。XXベクレル以上の放射能であれば致死量だ、などと言うことはできません。
放射能があったとしても、着ている服、滞在した時間、放射能との距離、遮蔽物の有無などによって浴びる放射線の量は違ってきます。このため、線量計を個々人が持つわけです。
線量計を持っていれば、誰が何シーベルトの放射線を浴びたということが特定できます。線量計を持っていないような状況であれば、「XXベクレルの放射能からYYmの位置でZZ時間作業したため、SSシーベルトの線量を浴びた可能性があり、これは致死量に値する」などというふうに言われなければ客観的な判断ができません。
逆に言えば、そこまで具体的なことがわかって初めて、致死量であるか否かを断ずることができるのです。そして当然、ここまで具体的なことがわかるという事は、致死量を浴びた人間がどこの誰かくらいまでは分かっているでしょう。名前や所属がまだ分かっていない段階であったとしても、少なくとも致死量の放射線を浴びて死んでしまうかもしれない人間がいる、という事は分かるわけです。
もしそのような状態であれば、組織の上に立つ長はまず、致死量を浴びた作業員、そしてその家族に申し訳ないという猛烈な自責の念に駆られるはずです。そのような状況で「致死量の放射能を放出しました」などと不正確で、しかもいかにも他人ごとのようなこと(強い放射線を浴びた人がいるという状況ではこの文脈は他人ごとになってしまいます)を言うでしょうか?不自然きわまりないです。
これがデマだと断定できる決定的な事実は、ツイートが流れたあと即座にその場にいて取材をしていた記者の方が否定していることでしょう。実名を公開してこの件に関する著書も出版してらっしゃる記者の方と、匿名でどこの誰かもわからない人間、どちらの情報が信用できるかは火を見るよりも明らかです。
@hanada_ryu @tart_k ツイート+拡散されているような「致死量の放射能を放出しました」という発言は東電の常務から、あのとき、なかった。その場にいた記者として、撮った写真に事実ではない説明をつけてツイートされている記者として、ここははっきりと証言しておきます。
— 斎藤健一郎SAITO Kenichiro (@kenichiro_saito) 2014, 6月 10
@STOMKK @tart_k 誤った説明がついているぼくの写真( pic.twitter.com/WwqX5abftP )ですが、質問をした記者や常務の思いは、門田隆将著「記者たちは海に向かった」(角川書店)に書かれています。
— 斎藤健一郎SAITO Kenichiro (@kenichiro_saito) 2014, 6月 10
@STOMKK @tart_k 東電の常務も、 福島第一原発の元所長として、原発事故で家を奪われた人たちと同じ地域で暮らしていました。「福島に未来はあるんですか」と聞かれたときに、悔しさや、やるせなさがこみ上げたのだと、ぼくは理解しています。
— 斎藤健一郎SAITO Kenichiro (@kenichiro_saito) 2014, 6月 10
ちなみに補足すると、多くの東電の社員の方というのは、現地(原子力サイト)周辺に家を構え、その県の住民として生活している人です。自分の生活圏が自社の設備によって汚染され、未来が危ういとなればその悔しさ、やるせなさは大の大人が泣き崩れるのには十分すぎる理由でしょう。
その気持ちを踏まえた上でこういうデマを作った人というのは、人間の心があるのでしょうか。全く理解できません。
何のためにデマを流布するのか
twitterに限らず、インターネット上ではデマが流布されることが多いです。簡単に拡散してしまうからです。
そして、たとえこれが真実であったとしても、なぜこの情報を拡散させるのでしょうか。普通、批判というのは良くないところや間違っている点を指摘して、改善を促そうという行為であるはずです。このような情報を拡散して、その目的が果たせるのでしょうか。
福島の原発事故によって問題になったのは、原子力発電所の過酷事故への想定の甘さであり、今後日本が取り組んでいかなくてはならないのは、中長期にわたって安全に、安定した電力を安いコストで供給し続けるのにはどうしたらよいか、という事です。
Yahoo!知恵袋などを見ると、原発事故をきっかけとして電力関係の質問が増えました。電力周波数はなぜ東西で違うのか。統一できないのか。原子力発電所の発電量を太陽光パネルによる発電で代替できないのか。
こういった流れはとてもいい事だと思います。国民一人ひとりが電力に興味を持ち、発電のことを知ることが出来れば国の施策も間違った方向には向かわないでしょう。この国は民主主義国家であるからです。
私達に今必要なことはそういうことではないのでしょうか。東電という会社を叩いて何か有益なことがあるのでしょうか。目の前の問題、つまり今後の日本の発電はどうするのか、という議論をおろそかにして、事故の原因を国や一つの会社に帰結させるという行為で何が変わるのでしょうか。