幸せかどうかテスト

以前からこういうことを考えている。

たとえば世間からの羨望の眼差しを集める人、あるいは、自分が羨ましいなと思う人を一人思い浮かべます。誰でも良いです。

例えばめちゃ金持ってる人とか、めちゃイケメン俳優だとか、めちゃ美人と結婚した誰かとか、めちゃ学歴もってる誰かとか、めちゃいい車乗ってる誰かとか、めちゃ良い家に住んでる誰かとか。各種メディアで出てくる著名人でも良いです。もしくはあなたの身の回りの具体的な人でも良いでしょう。

思い浮かべましたか?良いですか?

そしたら次の質問を考えてください。

「その人と人生を取り替えたいか?」

です。

この質問に「いいえ」と答えられる人は今の人生が幸せ、そうでない人は不幸せ、と、思ってる。

別にそう判断できる根拠は何もないです。単なるお遊びの「心理テスト」みたいな感じです。でも、なんかこれ結構あたってるというか、自分の幸せ度を測定するのになんとなく納得できるような基準である気がするんだよなあ。

なので、以来精神的にキツいときは色んな所で幸せそうに生きている人たちを見ては、「その人になりたいか?」「その人と人生を取り替えたいか?」と自問自答して、「いいえ」という回答を導くことで自分はまだ大丈夫だと認識させる効果がある。ように思う。多分。知らんけど。

なんでこんなことを考え始めたのかと言いますとね。ちょっと前にもブログで書いた気がする話なんだけど。

ちょっと前に某ファッション系ECサイトをリタイアして金配ってるおじさんがござったでしょう。あの人が盛りメディアに出ているときに「ああ〜M氏みたいに金持ちになりたいんじゃ〜」みたいなことを言っている人がいっぱい居る時、あまりにもそのヨイショっぷりを疑問に思いまして何気なく次のようなことを某所で発言したのである。

「まあ金はほしいけど、あの人と入れ替わりたいかって言ったら別にって感じじゃない?」

したところ、袋叩きにあいましてな。

「は?何いってんの?」「入れ替わるに決まってるだろ」「めちゃ金持ちなんだぞ」「女優と付き合ってるんだぞ」「羨ましいから強がってるだけだろ」などなど。私は「そうかな。顔は類人猿に似たファンシーな顔立ちをしてらっしゃるし、某ZOZOスーツもコケたし、インサイダー疑惑とかもあるし、そこまで羨ましい人生送ってるかな。金がほしいってのは同意するけど」と続けて書いた所、「だめだわこいつ、何もわかってない」「羨望丸出しで恥ずかしいやっちゃな」みたいなことを言われて憤慨したんですよね。羨望丸出しはそっちの方ではと思ったんですが。

で、まあ、そのことについてしばらく考えた結果、多分彼らは幸せじゃないんだろうなという結論に至った。

幸せじゃないからなにか現状を打破してくれる何かを求めてんだろうなって。自分の人生を上書きしてでも他人の幸せにまみれたいのだろうなって。それはつまり現状の自分が幸せじゃないって事なんだろうなって。そういう結論に至った。これも根拠はないよ。無いけど、そう考えると腑に落ちたんだな。

そんで私はその後、類人猿に似てらっしゃる某氏に限らず、なんかすげー稼いでそうだな、すげー幸せそうだな、すげー良い車に乗ってるな、すげーでかい家を持ってるな、などという人を見るたびに「じゃあその人と入れ替わりたいか」という自問自答を発し、真剣に考えた末、入れ替わりたくない、という結論に至るのである。つまりそれは幸せであるということである。

その自分の思考をもうちょっと紐解いてみる。ポイントは大きく分けて4つあると思う。

  1. 完全な人間など居ない
  2. 幸せの価値を金銭的・経済的側面に置きすぎている
  3. 単に貧乏な人もいる
  4. 今保有している経験的資産・文化資本が少ない

1.に関して。完全な人間など居ない。それは不倫してる俳優とか、不祥事起こしてる偉い人とか、疑似科学的なアレに傾倒していく医者・文化人とかを見ていればよくわかるでしょう。どんな人間だろうと悩みやコンプレックス、弱点、欠点を抱えています。そして内面からみたその自分の弱さって、年収300万円40歳GitHubテロ男性であろうと、ビル・ゲイツであろうと、ジェフ・ベゾスであろうと、イーロン・マスクであろうとその心に占める大きさは変わらないと思いますよ。

もうちょっと例を挙げてみると、我々が1000円の米国産牛肉ステーキと3000円の国産牛肉ステーキのどちらを買おうかなと悩むと同じノリで、お金持ってる人たちはベントレーとブガッティどっちにしようかなとか考えてるのかもしれないけど、その悩みの大きさって大差無いと思う。もしくは、どんな人であろうと中学のときに思いを寄せていた女の子に告白できなかった後悔を今でも思い出すかもしれない。そんな感じよ。

だから、金を持ったり権力を持ったり著名になったりしたところで、その転がす金額のデカさや、周囲を取り巻く人間の顔ぶれとか、注目を集める大きさとかは全然変わってくるんだろうけれども、そういった要素が心に及ぼす影響ってあんまり庶民と大差ないような気がするんだよな。

2.に関して。幸せの価値を金銭的・経済的側面に置きすぎている。これもそうなんですよね。もう事ある度に私はウシジマくんのこのセリフを引用しているんです。「世の中金が全てじゃねぇが、全てに金は必要だ」ってね。そういうことなんですよ。

まず、世の中は金が全てじゃなくて、金よりも大事なことが沢山あるんですよね。それは3点目に詳しく述べますが。そして、全てに金は必要なんですよね。金が全てじゃないけど、実質的に金はなんだかんだで必要になると。そんでな、その実質的に必要な金ってみんなが思ってるほどには実は多く無いんだな。一般庶民が幸せな人生を歩むために必要な金額って、そこまでバカみたいな大金が無くても良いと個人的には思ってる。

もちろん、贅沢しようと思えば無限に金が必要になる。ここが重要なんですよ。無限の金が必要なんですよ。なぜかというと贅沢というのは天井が無いからです。年収1千万になれば1.5千万の贅沢が欲しくなり、1.5千万の贅沢を得たら3千万の贅沢が欲しくなるんですよ。そうでしょ?そうじゃなかったですか?学生のときはみなさん、バイトして得た1万2万をありがたいと思ってたでしょ。たまに白木屋みたいなモンテローザの量産型居酒屋に行って飲み放題頼むのが楽しかったでしょ。でも今、1万2万や白木屋に行って当時と同じくらいの満足を得られますか?っつうことだね。年収がたった10万上がっても、そのぶん感覚は贅沢になるんだよ。人って。

年収っていうのは実は指数関数で増えるものではないんですよね。知らない人多いかもしれないんですけど。一方で金をかけて得られる満足感ってのは麻薬みたいなもんで、毎回同じ量を投与して同じ大きさの満足が得られるわけじゃないんだよなぁ。だから金をかけて幸せを追求するというのは、これは悪手であると思うんですよね。

じゃあどうすれば良いかって言うと、金かけるにしてももうちょっと頭を使ったほうが良いと思うんですよね。金を持っちゃうと、金で殴って解決すりゃいいじゃんって思いがちなんだけど、そしてまあビジネスの世界ならば金で殴ったほうが良いことも沢山あるんだけど、趣味とか自分の人生だともうちょっと頭使っても良い気がするんだな。例えば、車の運転が楽しいと思うでしょ。で、今乗ってる中古のボルボを売ってベンツSクラスに乗り換えたところで、そりゃ幸せかもしれんけど、それって予測できる幸せなんですよね。だってどちらも同じ車なんだから。例えば、内装を触ってみたところで、ほーん、こんな感じね。高級感あるね、ってね。1週間もすれば忘れますよ、きっと。シートに座ってみて、ほーん、良いシートだな。って。1ヶ月もすれば元々こうだった、って気持ちになりますよ。きっと。運転してるときにいちいちシートがどうとか内装がどうとか見ねぇしな。

満足度ってのは不変な絶対値じゃなくて、満足関数の微分なんですよ。わかります?満足じゃないところから満足な状態に至った瞬間に満足を感じるんですよ、人間って。幸せも同じ。満足値が一定で普遍だと慣れて満足しなくなる。

だからね、高級車に乗る金をかけるんだったらね、未経験の所、あるいは経験の薄い所、あるいは特に興味の持てる所に投資したほうが得られる満足度の期待値は多い気がするんだよな。だって経験薄いところだったら満足値はゼロとか未定義だったりするわけでしょ。具体的には、例えば車買うんじゃなくてバイクにしてみるとかね。自転車にしてみるとかね。電動アシストスポーツバイクにしてみるとかね。良いランニングシューズと良いウェアとハイテクな機能が付いたアスリート向けのスマートウォッチを買うとかでも良いかもしれんよね。そういうことで高級車以上の満足感って結構簡単に得られるはずで、必ずしも金をかける必要はない。と、思う。

ちょっと話がそれ気味になってきたので元に戻すと、例えば「有名な誰か」って多分無意識に金を持ってる人を選んでるでしょ?大金持ちかはわからんけど、少なくとも一般庶民の倍以上くらいは稼いでそうな人を選んでるでしょ?その理由を考えてみて、その人を羨む理由が金だったら、金を武器に得る幸せってキリがないのでやめといたほうがいいですよ、という気分になる。ということ。

3.単に貧乏な人もいる。これは、見も蓋もないことなんですが、まあしょうがないんですよね。これって。前項で書いたように思えるのって結局、「全てに金は必要だ」の90%以上くらいを無理せずまかなえてる人が言えることであって、衣食住などをまかなえる所得がない場合はバカじゃねぇの、何が幸せの期待値、だっ、金が全てだ。世の中は。金をよこせ、バカヤローってなるんですよ。これ。

人間って貧乏で余裕が無いとひどく攻撃的になるんですよ。これはもう間違いないと思ってるね。そういう人たちの前で「まあまあ、お金よりも大事なことはあるよ」「お金の使い方をちょっと工夫すれば幸せになるよ」などと言ったらどうなります?「馬鹿野郎、こっちはなぁ、来月の家賃も払えるか払えないかのラインで生きとんのや、どう工夫したら家賃が出てくると思っとんじゃ、お前はアホか?工夫して家賃を払って焼き肉を食えるんだったらその工夫とやらを教えてみい」ということになるのである。

当然ながら前項で書いたようなことは、工夫しなくとも家賃を払い、その日その時の気分で任意に焼き肉を食える程度の経済力を暗黙の前提としているので、この前提が成り立たないと申し訳ないんですけどどうにもなんねーんですよね。頑張って稼げ、としか言えねぇ。だれか著名人を羨望するのではなく、まず頑張って稼いでくれ。稼いで腹いっぱい食ってくれ。話はそれからだ。と思う。

するとここでまた一つ思い出すんですけど、自己防衛おじさんって居たでしょ。年金の諸問題で街頭インタビュー受けた人。

「お金いっぱい欲しいんだったらさ、年金あてにしちゃだめじゃない」
「自己防衛、投資、あと海外移住、日本脱出だよね」
「だから国なんかあてにしちゃだめよ」
「あてにするから文句が出るわけでしょ」

とか言ってた人。私ね、これ正論だと思うんですよ。海外移住とか安易に言うところ以外は。

年金は問題の多い制度です。これはみんな同意できるよね。だから、それを正すべきですよね。正すと言うか、少なくとも今のままで何もしなくても良い、って若年層の人はほとんど居ないですよね。もっと話を広げると若年層の貧困をどうにかしなきゃあかんという大きな社会問題もあるわけでしょ。給与が長年伸びてないという問題もあるわけでしょ。でもね、実はそれと自分が貧乏であるってのは、あんまり関係が無いんだな。

国を、あるいは社会を正せば自分の生活が良くなるってことは、これ、ほとんどありえない話なんですよ。残念ながら。まず、国や社会が正しくなるという前提にかなり無理がありますし、正しくなったところで自分が恩恵を受けれるかどうかってかなり不透明な話ですよね。だから、それに期待して待つよりも、自分自身が現行の制度、状態の中で人並みに食っていく方法を見つけるほうがはるかに易しいと思います。だから期待して文句ばっかり言ってないで自己防衛つうか、自分の手を動かしてまず稼げば?って思う。

と、こう書くと社会参加の意識の低いやつだなどと言われそうですが、そんなもんは選挙のときに真剣にクソみたいな選択肢の中から比較的まともに思える候補がどれかを頭使って投票する程度で十分と思いますよ。

というわけで、そもそも貧乏な人は誰かと人生入れ替わるなどという以前の問題で金を稼いでくれ、そして腹いっぱい焼肉や寿司を食ってくれ、そういう笑顔のあふれる社会であってほしいな、という話だった。

4.今保有している経験的資産・文化資本が少ない。これが一番重要かな、と思うんだよね。私が冒頭の問いに対して一番「別にその人と変わりたいとまでは行かないかな…」と思う理由ってこの辺りの影響が強い。

要するに自分の人生で構築してきたものがリセットされるのが惜しい、怖いと思うんだよね。

例えば私の歩んできた人生とかね。小学校の時に一緒に遊んだ友達、地元のお祭りで買ったボンボン坂高校演劇部の単行本、花火大会で焼きそばを食ったこと、夏に川に入ってカジカを獲ったこと、高校卒業して久しぶりに会った女の子と「お互いずっと結婚できなかったら結婚しよう」などと冗談めいた約束をしたこと、車に乗って色んな所に行った思い出、大学で留年しかけて泣きながら勉強したこと、嫁さんと出会って結婚したこと、そんで生まれてきた子どもたち。

あるいは、大友克洋作品が好きだったり、ナウシカと紅の豚が好きだという気持ち、過去沢山読んだ戦時中の従軍記の数々、バイクやトラクター、ポンプ、草刈り機などのエンジンが好きだという気持ち、稲穂を刈った匂い、冬の朝に氷を踏み割る音と感覚、焚き火に火をつけて眺めている安心感。

そういった諸々が失われてしまうのではないか?と思うと安易に金があるから、イケメンだから、などという理由で人生が変わってしまうのは嫌だし恐ろしいんだよなあ。朝起きて大金持ちのおっさんとか、隣に美女が寝てて鏡見たらイケメンになってるとか、怖くて泣いちゃうと思う。嫌じゃない?俺は嫌だ。

もしかしたら、「いやそれは問いかけの前提がおかしい」とケチつける人がいると思うんですよ。すなわち、「人生を取り替える」の定義が曖昧であって、それは姿形が自分のまま立場が入れ替わるのか、それとも外見もひっくるめて入れ替わるのか、名前はどうなるのか、家族も同様に転移するのか、記憶が引き継がれるのか、という辺りが曖昧だから、そこらへんの内容如何によっては回答も変わってくるぞ、そこんところはっきりせい、とね。

違うんだなあ。俺に言わせれば、違うんだよなあ。

立場や見た目、名前、記憶、価値観。そういったものをひっくるめて人格、なんだと思うんですよね。攻殻機動隊でも少佐が言ってるじゃん。

人間が人間であるための部品が決して少なくないように、自分が自分であるためには驚くほど多くのものが必要なの。 他人を隔てるための顔、それと意識しない声、目覚めのときに見つめる手、幼かった頃の記憶、未来の予感。

って。自分という人格を構成するのにはかなり複雑な情報と機構が必要で、それは社会的な立ち位置をも含むと思ってるんですよね。簡単に言えば、私が超ボンボンの家に生まれ育ち、成人してからも親の資産によって超ボンボンな生活をしていたら、農業用の汎用エンジンを見て美しい工業製品であると思う心は生まれなかっただろうということなんですよ。

だから、「人生を取り替える」の定義が曖昧だと言えども、その曖昧な部分のどこを切り取っても私は自分のままでいたいし、どんなに素晴らしく見える人生であっても他人の人生と入れ替わることは気持ち悪いし恐怖だし嫌であると言い切れるんですよね。そういうこと。

で、そう言い切れるためには先に話したような自分の経験や関わってきた人たちが尊くて価値のあるものだと思えないと無理だと思うんですよね。逆に言えば自分の人生がどうでも良いから、他の人と入れ替わっても良いと言えるわけで。

そう考えると、結婚して子供が生まれたのってかなりデカイとおもう。人生がちょっと変わってたら子どもたちは存在してなかった。だから、他人の人生を生きてしまってもし子どもたちが存在しない状態になったらそれは子供が死んでしまうに等しく、私には耐えられないと思う。

だから、まー、大金持ちに生まれ変わりたいとか思ってる人たちはさっさと結婚して子供作ったほうが良いよ。と親の小言みたいなことを言いたいわけではなくて、その「配偶者」や「子供」の部分に当たるものは人それぞれだと思うので、そういうのを見つけるとか、あるいはこれまで生きてきた人生を振り返って、自分にとって金では代えられない大事なものってなんだったのかな、というのを探してみることは自分の精神を豊かにし、かつ人生を幸せにするのに重要だと思うんですよね。

以上。

まとめ?特に無い。終わり。解散!

追記:

「私は何者にもなれなかった」みたいな論も同様に見ていてうーんと思うことがある。人間の人格を構成する要素って前述したように非常に多い。それらを肯定的に見れないのはあまりにも自己評価が低すぎると思う。だからどうすれば良いかって?知らん。甘えるな。自分で考えろ。すぐ人に聞いたりググったりするな。