女の社長を女社長と呼ぶのは差別なのか?

というのを下記のツイートを見て思った次第。

最初に書いておくが、この記事は特にこの人を指しておかしいと指摘したいわけではない。

多様性が求められる社会においてこうした「性別」を意識させない言葉遣いに改めよう、みたいなものはたくさんある。看護婦→看護師、とか。これは世界的な潮流であって、性別に中立であろうとする大まかな方向性には同意する。しかし、その流れは「こういう言葉遣いは改めよう」と従来使われていた言葉を悪と定義するのではなくして、自然と性中立的な言葉が多数を占めるよう緩やかにシフトしていったほうが良いのでは、というのが私の意見。

なぜなら、「性別にバイアスがある言葉」は原因ではなく結果であるから。結果をなくしたからといって原因となった問題も解決するわけじゃない。

もちろん、「性中立的な言葉に改めよう」という運動によって、自分の言葉に無意識のうちにバイアスがかかっていたのだな、という気づきを期待する効果はあるが、そうして気づける人間は1回指摘すれば気づけるわけで、他の数多の言葉まで虱潰しでバイアスを潰していくのは労力の割に成果が少ないんじゃ…と思う。

例えば看護婦の例を挙げよう。ある男性が看護師になりたいと思った。だから看護師になりたい、と宣言したところ、彼が住んでいるのは田舎で保守的な考えをする親類が多く、親戚のひとりのおじさんが「なんで男なのに看護婦になるんだ。男だったら医者だろ」などと言われて憤慨したとする。

この場合の「看護婦」の使い方は大変によろしくない。現状、看護師は女性が多数で男性は少数であるがために、それを根拠として看護婦は本来女がやるもんだ、と勝手に決めつけている。男が看護師になる自由はあるのに、それを看護婦は女の仕事、と決めつける人がいる。

だから、このおじさんに対しておばちゃんが「おとうさん、今は看護婦は看護師と呼ぶんですよ。男がなっても普通な職業なんですよ」と指摘したとする。そこでおじさんが「おっ、そうだな」と考え方を改めてくれたらこの言葉のバイアスを正すという行為には意味があったと思う。

でも、次にこのおじさんが別の親類に対して「女が社長の会社に就職するって?大丈夫なのかその会社は?女が社長で仕事できるのか?」などと言ったとする。そこで「おとうさん、今は女性が社長の会社だってたくさんあるんですよ」という事にどれだけの意味があるだろうか?

何が言いたいのかというと、こういう元来差別的な(少なくともバイアスがかかっている)おじさん(あるいはおばはん)は世の中にたくさんいて、そういう人たちに言葉を改めるという虱潰し的なアプローチは労力の割に実りが少ないのではないかという危惧である。

一方で看護婦→看護師といった一例から問題の本筋を読み取り、性中立的な言葉遣いを心がけよう、と思っている人の殆どはそもそも性的な問題に関して関心が高い人なので、言葉遣いがどうであれ差別的な扱いをしない行動になっている可能性が高いと考えられる。だから、そういう人は新たな性バイアスを感じさせる言葉が発見されたときはそれを使わないようにしようと心がけてくれるだろう。でも、こういう人達はそもそもバイアスや差別的な意識が少ない人達なのだ。虱潰しに正バイアスな言葉を潰していく行為は、本当に改めるべきおじさんには響かず、すこし意識の高い人達の負担を増やすだけ、という結果にならないか。

そうしてこの運動の極地が、「フランスで『父』『母』という言葉を辞めて親1,2と呼ぶようにしよう」という話になる。

フランスでは現在、「学校への信頼を取り戻す」というスローガンのもと教育改革が進められている。下院で可決したこの修正案もその一環で、学校が書類などに「父親」や「母親」などの言葉を使うのをやめ、「親1」や「親2」という表現を使うことができるようにするものだ。このあと、上院で採決されることになる。

フランスの学校、同性婚家族への配慮で「父」「母」の呼び方を「親1」「親2」へ

こうしたことが進むと、例えば創作物の中で「女社長」「看護婦」といった言葉が使えないということも出てくるだろう。もしそうなったら単なる言葉狩り以上の意味はなくなってしまう。

言葉というのは対象を言語で表せるようにしたもので、性バイアスをうけた言葉というのは、その表現形式が広いものを指すか、狭いものを指すか、という違いしか本来は無いのである。「看護婦」という言葉自体が悪ではないのである。

私は男の社長は「男社長」と言わないのに女社長というのは変。単に「社長」というべき、という論はまるでヘラクレスオオカブトムシをカブトムシと呼ぶべき、というような違和感を感じる。

現に、少なくとも日本では女性看護師が多いから看護婦という呼び名が定着したし、男の社長のほうが多いから「女社長」と特に女であることを明示しなければならないコンテキストで女社長と呼ぶ場合がある。差別的なコンテキストで女社長という言葉がでてきたとしても、その問題は女社長という言葉が悪いのではなくて、差別的なコンテキストが悪い。本来正すべきはそちらだろう。

我々は本来異なるのである。ヤマトカブトムシもヘラクレスオオカブトムシも現に存在するのである。違うのである。その違いがあることを認識し、細かいところでグダグダ面倒くさいことを言うのはやめようぜ、という運動であったはずなのになぜ「ヤマトカブトムシやヘラクレスオオカブトムシはどちらもカブトムシなのだからカブトムシと呼べ」みたいになってるのだろう?

本来あるべき姿なのは、「ええ、私はヤマトカブトムシですけど何か?」「私はヘラクレスオオカブトですけど何か?」と胸を張って言える社会だったのではないだろうか。

親1、親2の例で行けば「私が父親です」「私も父親です」とか、「私が母親です」「私も母親です」とか、「私は父親で母親はいません」とか、「私は母親で父親はいません」とかと宣言して周りの人間が誰も何も思わない、「あ、そうですか」で済んでそれ以上なにもない、という社会が理想なんじゃないのだろうか。

女社長の例でいえば、「私が社長です」と言って、「あっ、女性の方だったんですね!大変失礼しました、男性とばかり考えておりました(ちっ、女かよ、仕事やりにくいなぁ)」みたいな雰囲気を正すのが正義なんじゃないの?

性的にバイアスのある言葉遣いをされたりされなかったりして差別的なことを言われあるいはそういう扱いをされ、「日本はまだこんなレベルの人間が蔓延ってるのか…日本死ね」となる気持ちはわかる。よくわかる。しかしながら目指すべきなのはそういう差別的なやつに差別的なことを言われてやりたい事がやれない社会を打破して、色んな人がそれぞれ法律と最低限の道徳の許す範囲で好きなことをやれる社会ではなかったのか。

「女社長」という言葉を排除すれば女社長が増えるのか?そうじゃないだろ?つまらないバイアスのかかった考え方が世の中から排除され、経営がしたい女性が気軽に社長になれてビジネスの場でも舐められることなく対等な取引ができるようになり、女社長が世の中にどんどん増えてきた段階で自然と「女社長」という呼び方が古臭くてダサい呼び方になるのが我々が目指すべき社会なんじゃないだろうか。

そのためには言葉を虱潰しにするのは無駄とは言わないけど費用対効果の面で疑問なところがあり、直接的な悪を直接的に懲らしめたほうが良いと思うんですよね。