仲間を見つけるということ

こないだ、「お前は一人で事業をやろうとしている。しかしジョブズにウォズが居たように、ビジネスを興すには一人では不可能だ。お前は仲間を作るという作業をサボっている。仲間が居なければ10年後もお前は理想を語り、事業プランだけ並べて事業を一つも初めては居ないだろう」と言われた。

ううむ。痛い言葉である。とりあえず酒を飲んで忘れよう。

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ちなみにここで言う事業とは、Sashimiの件でもあるが、まぁその他にも色々計画はあって、その全体を指している。

確かに一人で出来ることに限界はある。それは全面的に同意する。であるから、仲間を見つけなくてはならない。それも同意する。しかし…仲間か。うーん。

私には友達が居ない。それは何度もこのブログで書いてきたことである。私は基本、他人は信じない。とある性格検査テストで「お前は人生の9割弱は自分の力でどうにかなると思っている」という結果が出たのが自分の中で強く印象に残っている。それは逆に言えば「人生の9割弱は自分で何とかなると思っている」とも言える。私に言わせれば他人は信用ならない。仕事でも、他人に頼んだ仕事は大体納得できない仕上がりで仕上がってくるし、約束してたことは裏切られる。待ち合わせ時間は遅れる。他人に合わせるのは私にとって疲れる作業だ。だったら一人で一人が食うぶんだけ稼げりゃ良いや。…とならないのは、何を間違ったのか陰キャのくせに早々に結婚して子供まで作ってしまったこと。いや、この話はやめよう。不毛だ。

「茄子」という漫画で、主人公の古くの友達である松浦という人が尋ねてきて、

女「松浦さん奥さんは?」
松「ああ一応ね」
女「一応…」
松「一応子供もね。俺なんかの子供だなんて不幸だね」
主「そんな話しに来たのか」
松「や、すまん」

という会話をするシーンがある。

俺はこの、松浦さんの気持ちも主人公の気持ちもよーーーーーーく分かるんだよなぁ…。作者である黒田硫黄氏はこういう絶妙な雰囲気を短いセリフで表現できる天才だと思う。何気ないところでちょくちょく知性を感じさせるような物言いも良い。上述のシーンもとても知性を感じさせる。「そんな話しに来たのか」「や、すまん」このセリフに込められた思いを私が文章で表現したら、たぶん1万字は超えているだろう。

話を戻す。

仲間。ひどく曖昧な割に押し付けがましい言葉である。チーム、もそれに似ている。これも漫画なのだけど、医龍という漫画で「お互いに責任を押し付けあって分散させるのがチームではない。チームのために個々人が死にものぐるいで役に立とうとするのがチームだ」と言っていたが、ははあ、それは素晴らしいがそういうチームも見たことがない(というと私の職歴上関わった人に対して甚だ失礼であることは重々承知しておりますが、でも、どんなチームも一定程度責任の分散を意図してないですかね?)。

私にとって仲間という言葉から最も近いイメージはRPGで主人公に付いてくる仲間たち。あれだ。

例えばマザー2。あんな素晴らしい信頼関係は私には構築できそうにない。

主人公のネスは幼くして世界を救うために親元を離れて旅に出る。その途中で新興宗教団体に捕まった女の子ポーラを助け出す。そしてちょっと臆病だけどメカに強い頭脳派のジェフ、某国の王子であるプーを仲間に引き連れて世界を救うのである。ラスボスは最悪の隣人ポーキーで、その戦いは4人のうち一人でも仲間に少しばかりの疑念を抱いたとしても勝利することは出来なかったであろう。4人はお互いを信じ、仲間を信じ、今まで出会ってきたすべての人々を信じ、願ったからこそ勝利を勝ち取ることができた。そんなストーリーだ。

その点、サガシリーズは結構適当だよね。10文字以内くらいの完結なセリフを喋ったらすぐ仲間になるからね。仲間の一人を生贄に差し出して凶悪な能力を得ることが出来たり、一国の皇帝が人魚と恋に落ちて民をほったらかして返ってこなくなったりすることもあり、まぁ私の性格的にはサガシリーズの方があってんのかな?という気もするんだけど、ちょっとこの記事では進行上都合が悪いのでカットな。カットにするんならなぜ書いた。

Sashimiの理念に共感してパートナーができる。なんと素晴らしいことだろう。でもそんな未来は絶対に来ない気がする。Sashimiじゃなくてもいい。自分にはやりたいことが100個くらいあって、そのうちひとつにでも共感して一緒にそれをやって一緒に幸せになろうぜ!毎日がエブリデイだぜ!って言ってくれる仲間がいたらそれはとても素晴らしいことだろう。

そうならない理由は私のコミュニケーション能力の欠如が第一要因だがそもそもそれを表面化させているのは、私自身がそれを望んでいないという部分にあるとおもう。私は100個くらいやりたいことがあっても、その中には仲間と成し遂げることができてやったね、良かったねというシーンが含まれていない。そういうシーンは想像がつかない。想像がつかないのは経験が無いからだろう。

私は中学3年生のとき、学級委員長に任命された。私はやりたくなかった。が、多数決で私に決まった。なぜ皆が私を選んだのか。それは、みんな学級委員長などやりたくない、と思っている中で犠牲者をあげるとすれば、こいつかな…と思っただけである。そこに信頼感のかけらもない。学級委員長ですらこんな体たらくなのだから、たとえば市議会議員や国会議員を決める選挙なんぞで立候補するやつというのははっきりといって頭がおかしいとしか思えない。わざわざ学級院長みたいな面倒くさい役柄に立候補するような頭おかしいやつが集まって出来てるから政治ってウンコなんだろうな、と思う。

それで、一人熱血系の女子がいた。その人は私が学級委員長ということが気に入らなかったらしく、事あるたびに「学級委員長のくせに率先してクラスの仕事を進めないなんて情けない」という趣旨のことを乱暴な言葉で私に伝えていた。簡単に言うとヤンキーであって、事実、高校生になってからグループ内で先陣切って歩くタイプで、女子校だったが後輩から恐れられていたと聞いた。

私は自分の意志で委員長をやっているのではなくして、押し付けられて責任者をやらされているだけであり、なんなら文句言うお前がやったらいいやんけ、と思っていた。でも言わなかった。怖いから。
その女は今、鎌倉だか湘南あたりで美容院を経営し人を雇ってると聞く。ほら、怖い人種だ。陰キャにとって美容院経営者なんかは対極に位置する人材で、敵と言っても過言ではない。

で、そんな感じでヤンキー女子にいびられながら季節はめぐり、毎年恒例の合唱祭というイベントがやってきた。クラスごとにテーマ曲と自由選曲の一曲を歌い、それを先生方に判定してもらい、順位を決めるというイベントであった。私ははっきりとこういうイベントが嫌いで、そんなもんやりたいやつでやったらいいやんけ、やりたくないやつを巻き込むなや。と思うのだけど、中学校というのは義務教育であって、つまり合唱祭も国民の義務の一つなのであって、私は渋々歌ったフリをしていた。

しかし、まぁなんですかね?なんでこういうイベントって女子が盛り上がるんですかね?全然理解できない。

他のクラスを見ると、放課後に自主練している女子なんかが他のクラスでいるらしく、私はそれも理解できなかった。放課後に自主練?なぜ?なんで歌を歌うの?みんな帰ってる中で?校庭で声を張り上げて?何歌っとるの?動物園に行ったってこんな珍妙な生き物にはお目にかかれ無いぜ。よく見てみろよ、ブッサイクな顔してるだろ。

でも動物園に行ったつもりで檻の外から合唱の練習をしている珍生物を観察するのは楽しいけど、問題は檻の外にヤンキー女子がいたという点。ヤンキー女子は中学時代でもそのヤンキーっぷりを遺憾なく発揮して後輩から恐れられていたとは聞いたことがある。そしてその通り、厳しい言葉を私に浴びせてきた張本人である。しかしながら不思議なことに合唱祭のときに至っては、あまり強気な態度に出ることはなかった。

ヤンキー女子は吹奏楽部であった。であるから特に音楽イベントでは負けられないという気持ちを持っていたに違いない。にも関わらず、事あるたびにいちいち私に確認を取り、遠回しに「今日、合唱祭の練習したほうが良いと思うんだけど…」などと言い、私が「じゃあ皆に言っておくわ」と連絡を行う、というルーチンを繰り返していた。あんなに気が強いのに、私にいちいち確認をとらずに「はい、今日練習です。文句言うやつは殺す」くらい言うのは簡単なのに、不思議であった。

結論から言うと我々のクラスは合唱祭で1位であった。練習量は他のクラスの1/3に満たなかったと思う。

なぜか。

それは秋田県という地域的な特殊性がある。簡潔に言うと秋田県というのは日教組が幅を効かせている地域で、小学校にははだしのゲン全巻が教師の自費で揃えられており、原爆被爆者のケロイド写真を小学校のうちに教師に見せられるのが決まりきっているような地域であったのだ。私はその頃、かわぐちかいじ著「沈黙の艦隊」にハマっていたので、核の相互確証破壊が戦争の抑止力の一員になる事をなんとなく理解しており(それが良いかどうかは別にして、なんとなく教師の言うことに疑問を持っていたという理由で)、そういう日教組的思考に辟易としていた。

案の定、日教組的思考に染まった他クラスは小難しい原爆被害者の歌とか、反戦の歌とか、常人には理解するのが難しい歌をチョイスした。

しかし我々のクラスはそういう小難しい歌をチョイスしなかった。たしか、「春に」とかそういう一般的な歌だったと思う。

その理由は、我々の担任が新卒2~3年目?くらいの女性の担任でまだ日教組的思考に染まっていない先生であったがために、生徒の意見がすんなり通ったのだ。他のクラスは生徒の意見が通らず、小難しい歌をチョイスしてしまった。それが全てだった。

考えてもみてほしい。中学生が「僕たちは 熱い光につつまれ 一瞬で影になった 石に焼き付けられた 影となったのだ」とかいう、悲惨な歌を真顔で歌っているクラスがほぼ全てで、一クラスだけ、「春に」とかいう、一般的でキャッチーな作詞・谷川俊太郎の明るい曲を歌っていたら審査員の気持ちとしてはどうですか?どうなります?

普通に「春に」選ぶでしょ。「春に」とかもう合唱の正統派も正統派、FFで言えばエクスカリバーとラグナロク二刀流で装備したナイトみたいなもんですよ。それに対して原爆の歌とか、まぁ、戦争はよろしく無いよね、という理念を思い起こさせるためには重要かも知れないけど、やっぱ卒業を間近に控えた中学生が歌ってて気持ちが良い曲では無いのよね。FFで言えばこっちは風水士縛りとか吟遊詩人縛りとかそういうややマニアックなプレイになるとおもう。だからこれはもう努力とか関係ないと思うのよね。私。分かるわよ、非戦の大切さは。でも、ラスボスと戦ってて気持ちいいのはエクスカリバーとラグナロク二刀流で戦うナイトだったってことよね。風水師縛りとか何回かクリアしてエンディングも見飽きてきたら良いかもしれないけどぉ。なんとなくオカマ口調になったけど。そういうことですよ。

そいで、その声張り上げて放課後に自主練したり、「男子も放課後練習しなさいよ!!!!」とか言っていた他のクラスの女子は努力の甲斐虚しく1位を取れないので泣いており、大して私はそのヤンキー女子にも「昨日も一昨日も練習したし、今日は別にやらなくていいんじゃない?」とか言ってた人なので、その点でやや申し訳無さを感じることもあるのだけど、ここから学ぶべきことがあるとするならば、それは「チーム一丸で一つの目標に突き進んでいっても、だめなもんはだめ」「努力は必ずしも報われない」といったやや悲観的な教訓で、しかし私にとっては非常に重要で考えさせられた経験であった。

渋々やらされた学級委員長の指示で、面倒だから練習も休み休みにするよう適当に指示し、結果、やる気で声を張り上げてたやる気系女子は報われない。チームや仲間の頑張りなんてあんまり関係なかったよ。担任が日教組的思考に染まっていたかどうかが分岐点だった。

高校入ってからも、そういう感じでチームワークで勝利したよねという経験を私は経ることがなく、そればかりか一人で判断をして頑張ったら何とかなったという経験ばかりが積み重なっていった。受験単位取得その他は個人プレイそのものであるし(ちなみにレポートを見せてもらう友達を作るのはチームプレイではない)、会社に入ってからも暫くは誰に聞いても明確な答えが返ってこないので、80年台に書いたFortranコードを掘り起こしてリバースエンジニアリング的に現行システムの仕様を理解するような仕事が多かった。

今までチームプレイをせずにオッサンになった人間が今更チームプレイを出来るだろうか。私のクローンが居れば出来る気がする。でも居ない。パートナーが居なければビジネスは成り立たない。ということはクローンが居なければビジネスが立ち上がらない。終わった。

そういえば前職では「これどうにかならない?」と言われて「私が分裂の術使えれば何とかなります」と答えるのが癖というか、そういう受け答えを何回もした記憶がある。「私は無理なのでXXX氏に投げてください」と言えればよかったけど、私は常に下っ端なので下がいなかった。なので、大体時間をずらす分裂の術を使って(=残業して)何とか誤魔化していた。それが20代で、20代のうちは70〜80時間残業することが多かった。もう無理。ということは分裂の術でパートナーを作るのもアウトだ。

大体、仲間を作るってみんなどうやって作ってるんだよ…。RPGだとPUBとかいう看板が付いている建物に入っていけば仲間候補的な人が何人か出てくるんだけどな。一人で飲み屋に入れるようになれば仲間が見つかるのだろうか。ダメな大人しかいなそうだな…。