子供に習い事をさせるのは良いことか

様々な意見があると思うが、自分の考えを書いてみる。なんか前にも書いた気がするけど。

私は基本的に習い事は嫌いで、子供にもさせたくないと思っている。嫁さんもあまり積極的に習い事はさせない感じだ。ただ、今のところピアノ教室には通わせている。理由は後述する。

まず、私の経験上、両親から勉強をしろとか習い事をやれと言われたことはほとんど無い。唯一、水泳教室には通っていたが、これは小さいころから夏休みになると毎日のように川に入って遊ぶ私を「いつか溺死するのでは」と心配した母親に行かせられたのである。結果、泳ぎを身に着けて溺死せずに30代のオッサンにまで見事成長したわけで、目的は達成されたと言える。が、私自身は泳ぎなんて川に入っていればいつか覚えるし、別に競技をする訳でもないということでモチベーションは低く、とりあえず泳ぎを学んだというあたりで終わった。

あと、習い事ではないが中学の時にはバスケ部に所属していた。自分は本当は美術部か吹奏楽部に入りたかったのだけど、友達が「文化部なんて女のやることだべ!」「お前の兄ちゃんがバスケ部だったんだからおめーもバスケやるのが当然だべ!」みたいな周囲の謎の働きかけにより、なんとなく流されて入ってしまった。そしてここでも私もモチベーションは高く無かった。そのころはスラムダンク絶世期であり、かつ、連載開始から終了までジャンプを買っていたにも関わらず私は1度もスラムダンクを読んだことが無かった。そのくらいモチベーションが低かった。

当然ながらそういう人間を監督は試合に出すことも無く、私は時々お情けで負けが確定した試合の後半2分くらいに交代で出場する、みたいな扱いであった。こういう扱いはまず頑張ってるモチベーションの高い他の部員に対して失礼だと思うし、私自身できれば試合に出たくないと思っていたほどなので、本当に誰も幸せにならない状況であったと思う。

日常の練習でもひどい有様で、私は基礎体力練習としてランニングに出たときはぶっちぎりのビリでゴールするのが常だった。いつか、見かねた監督が「まだランニングの途中だがお前はここから戻れ。そして俺は皆に『withpopを追い越せなかったらランニング追加』と伝える。お前はなるべく後続の部員に追い越されないように戻れ」と言われた。私はそれでなぜか俄然やる気になり、自分でも信じられない速度で走った。結果、ぶっちぎりで1着ゴール、だれにも追い越されなかった。そしてそれを校庭でみていた友人らが次の日「withpopが昨日1位でゴールした」「信じられない」みたいな話しで盛り上がっていて少し嬉しかった。

そんな感じで3年間私はバスケ部を通した。最後の日、「withpopは根性だけはすごかった。よく3年間通した」と監督に言われた。私はその後の人生で何度もしんどいことを経験したが、その都度「バスケ部よりはマシだわ」と思って乗り越えてきた。結局、得られたものはそのくらいだった。「いや、根性が付いたから良いじゃん」と思うかもしれないが、別にバスケ部じゃなくても根性をはぐくむ経験はあったと思うし、現代社会では根性で押し通すような仕事の進め方はよろしくないと私は思っているので、むしろ根性が無い方が良いのではとすら思う。

以上の経験から私は何を言いたいのか。私がはっきりと自信をもって言い切れるのは「モチベーションが低いやつは何をやってもダメ」ということに尽きる。モチベーション、向上心。そういうものがないと物事を学習したり、成長したりすることは不可能だ。「人からやらされる」という状況では身につかない。では、モチベーションや向上心はどうやって生まれるのだろうか。それは本人がその対象を好きだとか、面白いなどと感じる純粋な好奇心である。人間は義務感や使命感だけで走り続けることが出来ないようになっている。

実際、バスケ部での一着ゴールのエピソードは、ハンデがあるとはいえ一着でゴール出来たのはやはりモチベーションがその瞬間だけ高かったからだと思う。私は「ハンデがあるなら対等だ。だったら絶対負けない」という謎の自信があった。

そういうわけで、何かを始めるのならばまずその対象に興味を持てるかということが最重要だと私は考える。

私が子供に熱心に習い事をさせたり教育を施したりするのに否定的なのは、この「興味」「好奇心」の醸成を軽視しているように思えるからである。幼少期にはまずその「興味」「好奇心」を育むことが最重要だ。与えられたレールを走らせては決して「興味」「好奇心」は自然発生しない。子供の目線で色々なことをやらせて見せて、その中で子供が興味をもった対象を見つけ、その芽を育てていくのが大事だと思う。

これを踏まえて、私が特に否定的に考えているのが子供に英会話教育をさせることだ。子供が自ら主体的に英語に興味を持っているなら別だが、果たして日本語すら満足に話せないような幼稚園児程度の子供がモチベーションをもって取り組むことが出来るだろうか?非常に疑わしい。たしかに興味は持つかもしれないが、それは身の回りの動植物に興味を持つのと同じレベルの話でしかないのではないか。そんな状態で、将来英語は必要になるから、早くから勉強したほうが良いからとノルマのように勉強や習い事を押し付けるのは全く無価値であると私は信じている。

英会話教室に通わせれば、確実に子供の英語スキルは向上するだろう。それはそういう商売をしているプロに教わっているからである。そして、子供は一定程度英会話ができるようになるだろう。教育を受けた子供と受けていない子供では明確に差がでるだろう。しかし、それだけである。それ以上のことは本人の興味が無いと続かない。言われたことを覚えて終わりである。

というか英語教育に関してはそれ自体が私は疑問である。「語学は早いうちから始めるのが良い」、たしかにそういう側面はあるかもしれないが、限りある子供のリソースに優先でぶっこむのが「英語」というのは理解できない。「英語なんて言葉なんだやれば誰だって出来るようになる」と東進の先生が言っているCMがあるがこれはまさにその通りで、たとえばうちの会社でも他社でも40代50代になってからTOEIC 300点未満の段階でいきなり海外勤務になるオッサンは数多くいるのであり、そういう人たちが海外で何もできないかと言うとそんなことは無く、結局身振り手振りでなんとか指導を行い、しっかりと仕事をしているのである。

そして最も重要なのが、なぜ「英語ができる人」ではなくて「英語が出来ないオッサン」を海外に派遣するかという点にある。ここを即答できないような人は子供に英語を習わせない方がよろしい。なぜ英語が出来ないオッサンを派遣するか。それは、現地で仕事が出来るのは「仕事のスキルを持った人」であり、「語学に長けた人」ではないからである。言葉はなんとかなるが、専門的なスキルやノウハウは一朝一夕ではなんともならんのである。単純な事実である。

もちろん、語学と仕事の両方を兼ねそろえた人が居ればそれが一番である。しかし必須なのは仕事のスキルなのだから、語学がそれに勝る優先度を持つというのはやはりおかしな話だ。

私はなぜ子供に語学を学ばせるべきか全く意義がわからないが、もしその理由が「グローバル人材として活躍してもらうため」であれば、英語ははっきり言ってほとんど役に立たない。必要なのは対象とする関心ごとへの熱意だけである。熱意があればそれは向上心となり、勝手にスキルとして身について、いつしか仕事でも役に立つだろう。

イタリアの物理学者であるエンリコ・フェルミはなぜ英語で論文を書かないのかと問われて「私が書かなくても誰かが翻訳してくれる」と答えたそうだが、つまり、そのくらいの自信を本分の関心ごとで発揮するような人材を目標とすべきだというのが私の意見である。

こないだ、読売オンラインで「親の焦りが招く中高生の「悪い留学」」という記事を見た。以下、引用。

 「英語ができないと将来就職できないぞ!」

最近、わが子を中高生のタイミングで留学させたいという親が増えています。早い時期から英語に慣れさせたいという親心からです。しかし、キャリアへの意識がまだまだ薄いこの時期に子どもを「留学」させることは、正しい選択なのでしょうか? 「英語」を身につけることは、将来のキャリアにおいて本当に必要なのでしょうか?(中略)

  「誤った留学」を招く原因は一言で言うと、親子の間に生じる意識の差です。これを私たちは、「留学ギャップ」と呼んでいます。
「留学ギャップ」は、留学に対する目的や考え方の違いなど、親と子のさまざまな認識の違いから起こります。

 親が子どもの留学に込める思いは、もちろん英語力の向上であり、海外の文化・習慣の理解です。立派な「グローバル人材」となって、将来はグローバル企業に就職し、世界をまたにかけて実力を発揮してほしいと願っています。そのために、中高生の時分から、将来の危機感をあおりつつ、強く留学を勧めるのです。

 一方の中高生はどうでしょう。彼らと実際に話をしてみると、「大学への進学ならまだしも、将来のキャリアについては、まだ明確なイメージを持てない」という声が大半です。「親に行けといわれたから行く」という子どもが多いのも事実です。そうなると、その留学は、「将来の目的を見据えたもの」というよりは、受け身に近く、モチベーションも高くないものになってしまう恐れがあります。

以上の言は全くその通りで、留学する子供本人の目的意識をあいまいにしたまま留学させるというのはアホであるという以外にない。

と、いうわけで私は幼少期には習い事を始めてレールの上を走らせるよりは、子供が自発的に何かを初めて興味をもつということを大事にしたいと思うし、実際そうしている。

ちなみに4歳のうちの子供が今ハマっているのは折り紙、トランプ、お絵かき、塗り絵、ピアノ、歌う、ダンス、ファンルーム(輪ゴムを編んでブレスレットなどを作るおもちゃ)、神経衰弱、しりとり、絵本を読む、綺麗な石やどんぐりの類を集めるというあたりだ。どれも実に子供らしい遊びで、ごく平凡であるが私は今の時期に英語教育やその他習い事をさせるよりもこういう興味の対象に没頭させることがずっと大事だと思う。

最近は折り紙とテープを使って立体的な造形物を作ったりするようになった。こうやって指先を使ったり空間的に物体を把握することは様々なことに応用できる。神経衰弱はかなりの腕前で、酒を飲みながら付き合っていると負ける。

親としては、一緒に遊びに付き合うほか、歌が好きならば使い古しのスピーカーとポータブルオーディオプレーヤを用意したり、折り紙や画用紙、ペンや色鉛筆の類を充実させたりしている。塗り絵をスキャンしてペンタブレットで書かせたり、GIMPで写真に落書きさせたりということもさせている。古いPCにUbuntuを入れて適当に触らせたりもしている。どれもコストがほとんどかからない。コストという点でも我々は勘違いしがちだが、常にコストをかけた手法が良い成果を出すとは限らない。教育に関しては特にコストと成果の関連は薄いと思う。ちなみに、子供が好きな歌は童謡一般に加えて椎名林檎、POLYSICS、MEG、ジッタリン・ジンあたり。

さて、そういうわけで、長々と「習い事をさせるよりも好奇心を育むべき」という話をした。その一方でピアノは習わせてると冒頭に書いた。これは、幼稚園の延長保育時間に幼稚園で行われるものであり、子供の拘束時間に差が無いためである。通常、延長保育中は絵本を読んだり園庭を走り回ったりしているみたいだが、その時間の一部がピアノに置き換わっても特に大きな変化があるわけでは無いし、なによりも本人がピアノが好きで、自らピアノ教室に行きたいと言ったからだ。

ちなみに、そろそろ電子ピアノを買おうかと考えている。これは今までの中で最も大きい教育投資になる。これがうまくいくかどうかは不明だ。そのうち飽きてピアノとピアノ教室を止めても「せっかく電子ピアノを買ったのだから」と強要することは一切しない。その時は私がゲームミュージック等を耳コピして遊ぶために使用する。というか、娘がピアノを続けていてもやるような気がする。現に今も2000円くらいで買ったおもちゃのキーボードがあるのだが、これも取り合いになることもある。

親としては二人の娘を一流のハッカーに育てたいと思っているのだが、まあそれは親の希望なのでその他に何か熱心に取り組めるものを見つけてもらえればそれが一番だと思っている。