【質問#29】好きなもの

質問・悩み相談の回答です。

質問

こんにちは、いつも楽しく読ませてもらっています。
今までずっと悩んでいた事を相談させてください。

自分にはある好きな作品があります。
しかし一部のファン層に「公共の場で迷惑行為になるような行動をする人」(以下省略のため"DQN"とします)が一定数存在しその部分が悪い意味で目立っている現状があります。
その影響で、その作品に直接触れていない人たちでも作品をひっくるめた批判をされる事が多いです。
「この作品のファンはみんなDQN」や「DQNが生まれるような幼稚な作品」、「DQNのせいで作品まで嫌いになってきた」といった内容です。
自分たちファンからすればお門違いも甚だしいと言いたい所ですが、ここで下手に反論しても問題が解決するわけではないので黙っていました。

自分を含めたファンの間でもDQNの存在には困っているものの、相手は他人であり自分たちがDQNに対して躾をする権利も筋合いもありません。
感覚としては電車内で騒ぐ他人の子どもに対して叱るハードルに近いでしょうか、不可能ではないけれど現実問題として難しいという認識です。
しかし外野から「お前たちの(界隈の)身内が悪さをしてるんだ、見て見ぬふりしないで自治を行え」といった意見を直接言われた事があります。

こういった純粋に作品を楽しんでいるファンは作品以外の部分で批判を目にする事が多く、無視をしていたもののやはり人間は感情の生き物でありあまり気分が良いものではありませんでした。
実際に自分の友人も同じように批判をすることが多く、ある日「流石に自分の好きな作品を、作品以外の要素で何度も批判をされると疲弊する」といった旨を友人に伝えたところ

友人「いやいや、本当に好きだったら周りから何を言われても気にならないでしょw」

カチーンと来ましたね、流石に。
「周りから何を言われても気にならない」と言うのは批判されている側が譲歩して言う事であって、批判する側が言う台詞ではないだろうと。
ここで感情的に言い返しても逆効果で、それをタネに余計な批判を生むだけだと思ったのでそれ以上言及はしなかったです。
※ちなみに当の友人は、自分の好きなものが批判されるとハチャメチャにキレ散らかします。

以上の事柄を踏まえて、自分が悩んでいる事と解決したい問題をまとめます

=====================================
[1] 好きな作品を作品以外の要素で批判されることがストレスとなっている、どうしたら良いかわからない
→内容の批判であれば受け入れられるが、それ以外の要素では納得がいかない
[2] この問題(DQN)に対する解決策があるなら知りたい
    →自分たちがDQNを粛清すべきなのか、作品との向き合い方を変えるべきなのか、なんなら一緒に批判する側に回るべきなのか

=====================================

今回の相談において、自分は擁護する意見を求めているわけではなく客観的な視点からの回答が頂けたらなと思っています。
お手数ですがお返事を頂けると幸いです。

回答

お気持ちよくわかります。

私にも多数経験があります。一つはTHE MAD CAPSULE MARKETSというバンドですね。1980年後半からBERRIEという名前で活動を始め、当初はパンクロックが中心だったのですが「4 PLUGS」「DIGIDOGHEADLOCK」なるアルバムをリリースしたあたりからシンセサイザーを用いた楽曲を製作し始めました。当時はシンセサイザーとロックの融合というのは少なくとも国内のインディーズロックバンドではまだまだ珍しく、今振り返ると、現在のピコピコ系ミュージックの源泉がそこにあったように私は思います。

で、このMADなんですが、初期の歌詞の英語力が残念な感じなんですね。良いものもたくさんあるんですけど。で、どのくらい酷いのかと言いますと「YOURSELF LOOK!」という歌がありまして、「YOURSELF LOOK! テメェを見ろ!」と繰り返すんです。「YOURSELF(テメェ) LOOK(見ろ)!」です。単語並べただけですね。これを持ってして当時は「あんな恥ずかしい英語力の歌詞をCDに出来るんだから見てらんない。聞いてる人は英検何級ですか?」などと評する人たちもいたのですが、いや別に良いだろ!思いがこもってればいいんだよ!って私はイライラしてました。

あとはボーカルのKYONOが途中からずっとタオルを頭に巻いたり常に帽子を被ったりしていて頭皮を人前に晒さなくなったんですよね。「こいつ絶対ハゲだろ」「ハゲの歌なんか聞けねえよ」などという暴言中の暴言も飛び出し、私はそこでも憤慨ですよ。ハゲかどうか分からないだろ!見えないんだから!たとえハゲだったとしてもハゲは歌には関係ないだろ!松山千春だってハゲだけどハゲだからどうとか言う人皆無だろ!いい加減にしろ!と私は常々思っていました。

あとは私の乗っているマツダ CX-5もそうですね。私はガソリンエンジンのフィーリングが好きなので20Sというガソリンエンジンが載ったグレードを買ったのですが、世間ではマツダイコールクリーンディーゼルみたいな感じで評されていまして、かつ、CX-5はクリーンディーゼルエンジンが載った初めての車種ですから「えっ、CX-5買ったのにディーゼルじゃないんですか?」って高確率で言われるんですよ。しかも、言うやつの9割くらいは「こいつ分かってねーわ」っていう薄ら笑いを浮かべてるんですよ。これも私は憤慨なんですよ。

私は高回転まで綺麗に吹け上がるガソリンエンジンのフィーリングと音が好きであって、逆にディーゼルエンジンの振動と音は嫌いなんですよ。これは好みの問題であって他人にどうこう言われる筋合いはないんですよ。しかもマツダのエンジン開発の第一人者である人見氏自身が「ガソリンエンジンもディーゼルエンジンもどちらもが勝者だ」と述べていることからも分かる通り、どちらかが優れているとかいう話ではないんですよ。

だから私は毎回言うんですよ。お前ディーゼル乗った事あんのかと。何を持ってしてディーゼルが優れていると思ってんのかと。俺はディーゼル車もガソリン車もよおく乗ったよと。するとたいてい嫌な顔されるんですよね。自分から議論をふっかけてきておいて反論されるとムッとするとかマジでガキかよこいつ。と、こうなるわけです。

プログラミングの世界でもそうなんすよ。具体的には、最近だと関数型プログラミングと呼ばれる手法の周辺で議論が活発に交わされていまして、中には「関数型では処理に副作用が無い。ステートフルで副作用のあるコードはクソ」みたいに言う人も居たりして、これほんと極論なんですよ。そもそも計算機というのは元々ステートフルな機械であって、ステートフルな機械の上に表面的に構築された世界の中で副作用があるとかないとかぶっちゃけどうでもいいんですよ。

逆のパターンで「関数型とか一部の人が騒いでるだけで分かりにくいだけのコード。新しいもの好きが群がってるだけですぐ廃れるのが目に見えている」とか言う人もいるんですよ。ちがうんですよ。関数型でうまく行くパターンもあれば、ステートフルなオブジェクトのやり取りでうまく行くパターンもあって、「XXXはクソ」みたいに決めつけるのは本当に良くないんですよ。数多の手段の中からプロジェクトの中で統一感のとれた設計にいい感じに落とし込むのが一流のエンジニアなんですよ。

しかしコンピュータの世界ではこういう「宗教論争」は度々ありまして、古くはemacsとvimという二大エディタ間での論争とかもありますね。どれもこれも、基本的には「使いたい奴つかえ、人に強制すんな」って結論に違いないんですよ。

まだありますよ。絵描きの世界でもその表現についてあれこれ文句を言う人っているんですよね。具体的には、人物の頬や肘、膝などを赤色のエアブラシ的な塗りをしたうえで小さいハイライトを描きいれ、「寒い中で顔を真っ赤にして遊んでる子供」的な可愛さを演出するという手法があるんですよ。これについても「俺、あの赤塗り気に入らねぇわ」「あんであんな赤いの?実際あんな人見たことないよ」「どんだけ皮膚テカってんの?油ギッシュなの?」とか一々突っ込んでくるアホがいるんですよ。

絵、ですよ。絵。写実的に描く必要なんて何ら無いじゃないですか。絵というのは現実世界の事象や映像を絵描きの脳内にプロジェクションした結果を表現したものであって、そこに絵描き自身の体験や価値観がフィルタとしてかかわってきても全然かまわないんですよ。というか小説にしても映画にしても大体そんなもんじゃないですか。それをば、何ですか?「この絵のこの表現っておかしくね?」とかいう指摘は。全然建設的じゃないんですよ。

で、なぜか絵描きの人というのは大体メンタルが弱いのでそうやって批判されるとショックを受けて絵を描くのを止めちゃうんですよ。描き続けてればもっともっと伸びるかもしれないのに、止めちゃうんですよ。これ本当勿体ない事ですよ。確かに表現の範疇では無くて技術が稚拙だというケースも多いんですけど、そういうのはやさしく指摘してあげるべきなんですよ。オブラートひと箱使い切るくらいの言葉で言ってほしいんですよ。そんで、絵描きでもない評論家ぶった人間が外からずけずけと文句をいったりするのは本当耐えられないんですよね。

しかしながらその一方で公開された作品に誰が何を言おうとその人の勝手であり、それが嫌ならば公開するなという意見も正しく、メンタルが弱いのは本人が解決すべき問題であって一般化するなという意見もまた正しい。でも絵描きが絵を描くのを止めてしまうというのも悲しい事態であってこれをどのように解決すべきか分からない、誰にぶつければ良いのか分からない、というこのフラストレーションはどうすればいいんですかね。

と、質問に関係ない話を原稿用紙7枚分も書いてしまったところで今回のご質問の内容を考えてみたいと思います。

公共の場で迷惑行為になるような行動をする人

居るみたいですね。その他良く話題になるのは「撮り鉄」とかでしょうか。構図を決めるのに邪魔だとかいって木を切ったりする人ですね。私は撮り鉄自体を見たことがありませんが、中にはマナーを守って列車を撮影する人も多いのでしょう。そういう人たちからすれば、「撮り鉄はマナーが悪い」と決めつけられるのは憤慨することなのでしょう。

「お前たちの(界隈の)身内が悪さをしてるんだ、見て見ぬふりしないで自治を行え」

こういう事言う人もたまに目にしますが、

相手は他人であり自分たちがDQNに対して躾をする権利も筋合いもありません

仰るとおりです。実際に個人として口を出すのは効果の点からも現実的ではありません。自治を行うためには組織が必要です。そして積極的に組織化して自治を行う筋合いも仰るとおり皆無です。

友人「いやいや、本当に好きだったら周りから何を言われても気にならないでしょw」

ただこの一文にはいろいろと思うことがあります。質問者の方の思いには同意(同情)しますが、しかし現実的な解決策としては「気にしない」というのが基本となりそうだからです。(もっとも、ご指摘のようにそれを他人から当たり前のように言われるのもおかしいと思いますが)

以下、ご質問に対する回答です。

[1] 好きな作品を作品以外の要素で批判されることがストレスとなっている、どうしたら良いかわからない
→ 内容の批判であれば受け入れられるが、それ以外の要素では納得がいかない

こういうことは残念ながら往々にしてあります。冒頭で述べたような私の体験もしかりです。これは的はずれな指摘や批判を繰り返す人間が居るというのがそもそもの原因であり、さらに言えばTwitterなんかを見てもよくわかる通りこういう人はどのような分野でも一定数居ます。しかしながらこのような人をコミュニティから排除するというのはコミュニティ自体が閉鎖的になりがちで、時代と逆行する考えになりそうです。排除できないのであればせめて改善してほしいところですが、こういう的はずれな批判をする人というのは日本語の表現力、語彙力、読解力が欠如していると同時に攻撃的な性格をも兼ね揃えていたりします。こういった特性を本人が望んでも居ないのに第三者が変化させようとするのはほぼ不可能でしょう。

であれば考えられる対応策は二つしか無く、それは的はずれな批判を受容するか批判を見ないようにするということです。

前者の「批判を受容する」はそのご友人の言に通ずるところがあります。批判を見聞きしても、批判を直接されても自分は一切関知しない。迷惑をかけるファンとその他のファンは全く違う世界の人たちである。違う世界の人たちの事は知らない。関係ない。興味も無い。という態度を内面的にも対外的にも貫き通すということです。

実際、違う世界の人間なのだと私は強く感じます。なぜならば価値観が大きく異なっているからです。一方は迷惑行為とされることを好み、もう一方はそれを好まず鬱陶しく思っている。両者がその対象となる作品を中心として意気投合することは無いと思います。第三者の視点から見て一緒くたにされることはあると思いますが、それはやはり対象をよく知らない第三者の視点なので正確ではないのでしょう。正確ではないカテゴリ分けに基づいて「同一のグループに基づく人間が迷惑をかけているのだから」と気に病む必要などありません。

後者の「批判を見ないようにする」というのは文字通りです。私は経験が無いのでよくわかりませんが、このような批判というのは多分Twitterなどの各種SNSや掲示板、ブログコメント欄、もしくは実際の知人間で繰り広げられるものなのだと思います。インターネット上の批判を見ないようにするのは簡単です。批評がなされていそうなサイトを一切見なければ良いだけです。一方で実際の知人間での話題を避けるのはすこし難しいかもしれませんが、批判を聞かないようにするには対象の話題を避けるしかありません。

前者は「受容する」というそれ自体が難しい行為ではありますが、できてしまえば失うものは無いでしょう。後者に関しては、もしかしたらある共通の興味を持つテーマを元に知り合った知人などは離れていくことになるかもしれません。

ちなみに私は随分昔から(冒頭のTHE MAD CAPSULE MARKETSを聞いていたあたりから、2003年ごろ?)もっぱら後者を選択しています。なぜならば、漫画、アニメ、音楽のように良し悪しを定義しようがないテーマについて議論を重ねても不毛だからです。創作物を鑑賞してどう捉えるかというのは個々人でことなりますし、それが他人とどう違っているかということを議論してもそこから何か自分にとってためになる結論が得られた経験は私は皆無です。もっとも、完全に見ないわけではなく、映画や小説のレビュー投稿程度だったら調べますが。

問題は外野からみれば両者は一つのカテゴリに見えてしまうという点なのですが、そこは先に述べたように違う世界の人たちであり、互いを理解することは不可能であるからこのテーマにおいても共通認識を作ることは不可能だと思います。だから説得も自治も不可能です。それでも対処してほしかったら私では無く迷惑行為を実際にやっている人たちに言ってもらうしかないです。と言い切って良いと思います。それが事実ですから。

[2] この問題(DQN)に対する解決策があるなら知りたい
→ 自分たちがDQNを粛清すべきなのか、作品との向き合い方を変えるべきなのか、なんなら一緒に批判する側に回るべきなのか

たぶん根本的な解決策はないように思います(私の問題に対する知識の乏しさもあるかもしれませんが)。

問題を根本的に解決するには、迷惑行為をしないように自治をする必要があります。それが犯罪であれば警察が取り締まるでしょうが、「迷惑行為」なのでおそらく犯罪未満なのでしょう。しかし、自治は先に述べたように組織化されていないので出来ません。ではこれから組織化できるかといえばこれも無理でしょう。なぜならば自分たちの行為をこれから規制することを目的とした組織化に賛同する人など居ないからです。

自治ではなくて問題行動を行っていない面々が独自に「統治」をして警察機能を発揮するという方法も選択肢としてはあります。つまり半ば強制的な行動を取るということですね。ただこれも、一民間人が何らかのイベント(?)が開かれるたびに出張って迷惑行為を阻止するというのはどう考えても非現実的です。それにその正当性を世に示すのも難しそうです。

それに、そもそも迷惑行為をしない側の人間が積極的に迷惑行為をする人たちのために時間や労働力を割くという事自体が難しく、賛同者は得られそうにありません。

あとは今回のケースでは「作品」が発端になっているので、その作品の提供元が迷惑行為を慎むようにという声明を出すということも方法の一つとして考えられます。が、そもそも迷惑行為をしている人は、人様の迷惑を無視することができるという特殊能力が備わっているからこそ迷惑行為ができるのであり、そのような人が公式に「やめろ」と指摘されたところで聞く耳は持たないでしょう。さらに言えば、「作品」を作っている人はまだしも商売として提供している側としては、そういう面倒事に積極的に首を突っ込んで議論を重ねるという行為はコストがかかる割に金にならず不毛なのでやりたがらないとも思います。

というわけで残念ながら簡単にできる根本的処置というのはなかなかなさそうです。

ですので、こちらも気の持ちようとしては「一切関知しない。なぜならば違う世界の人間だから。違う世界の人間のことは知ったこっちゃない」という方針を基礎にするしかないように思います。