子供を育てること

こないだ家族4人で外で飯を食っていた。長女は3才、次女は0才。隣に20歳後半くらいのカップルが座っていた。

子供が居る人なら経験があるだろうが、子供を連れていると反応する女性(たまに男性も)は多く、「可愛いねー」とかよく言われている。特にうちは両方女でかつ3才と0才という、「ようやくまともな会話が出来るようになった頃」「赤ちゃん」という可愛い二大棍棒で母性に殴りかかってるようなもんなのだと思う。

で、その時も隣の彼女の方が「あーん、かわいい」等としきり言っていた。長女は次女に色々ちょっかいを出し、次女もまんざらでもないのかよだれを垂らして笑っている。蓋し微笑ましい光景である。たぶん。

そのうちにカップルの会話は自然に結婚や出産へと向いていき、彼女の方が「ほら、どうすんの」みたいな感じでせっついているようだ。彼氏の方は「うーんそうだね、時が満ちたら」みたいな、半分はぐらかしてるみたいな、半分まんざら嫌でもないみたいな、よだれ垂らしてる0才次女の28歳男児版みたいな顔をしていた気がする。

そしたら、長女が椅子から降りるときに彼女のほうにぶつかってしまい、ああっ、すみません。ううん、いいの。いいのよ。お姉ちゃんなん歳?みたいなやり取りがあった。長女は「3才!!」と自信を持って表明。それでまた可愛い~!みたいになってた。私はそれを31歳児のオッサンの顔で眺めていた。

ふと、妻が「パパは何歳になりましたか」と言った。パパは2月15日で31歳児になったのです。したがって「31歳!!」と自信をもって表明した。

すると、彼女の方が、はっ、とした顔になった。おそらく彼氏の方と年が近かったのだろう。「ほらほら、どうすんのよ」とニヤニヤ笑いながらテーブルの下で彼氏の足を蹴っている。すると彼氏の方が「う~ん、俺もあと数年経てば」みたいな事を、一日草野球やってから温泉入った瞬間、みたいな顔をしながら言ってる。

その時に私が何を思っていたか。

お前らははっきり言ってその子供らがかわいいところの可愛い、の部分しか見てない。結婚という行為も愛する二人が両者合意し、両方の両親が合意して顔合わせをしてお世辞の雪合戦を済ませたら面倒なことはたいてい終わりで、あとは役所に婚姻届を提出してゼクシィを買えば「幸せな家庭」というフリーランチを365日食えると思っているのだろう。

大間違いである。

そもそも「女性と便座について」でも述べたとおり、結婚行為というのは互いに生育歴の全く異なる二者が同一の生活をするという事であるから、衝突は必ずある。

その衝突が最初に訪れるのは多くの場合結婚式であって、お互いに理想とする結婚式像(もしくはそもそも結婚式なんてララララみたいな考え)があり、それが音を立ててぶつかるのである。喧嘩神輿みたいなもんである。

「俺は下ネタの好きな友達の某A氏に余興を頼みたい」「私の友達の前で絶対下ネタはやめて!みっともない!」「何でだ!俺の心の友がA氏だ!お前は口を出すな!」みたいな感じで、ソイヤ、ソイヤが始まってプランナーが「ままままままま、ここはひとつ」みたいな感じで場を収め、で、それを10回繰り返したところで三方が疲れ果て、「もう詳しいことは次回で」みたいなことを何度も繰り返したのち、結婚式直前までかかってプロフィールビデオを作成、ようやくDVDに焼いたと思ったら式場スタッフが「再生できません…」みたいなことを言い、なんでだ!おかしい!この世界はおかしい!みたいな感じになり、その他もろもろを経由して何とか結婚式当日はハッピーハッピーかもしれないけど、影では「これ絶対ご祝儀も料理もお金かけてないよね」とか陰口言われてることもあったりして。

そいで共同生活が始まったら始まったで「ちゃんとゴミ出しといてよ!!」「皿洗っとけよ!!」「便座上げとかないでよ!!」みたいな怒号が飛び交い、そのうちに2か月に一ぺんくらいの飲み会で後輩に対して「お前らなあ、マジで結婚は良く考えてした方が良いぞ」などと説教をたれ、「いや、でも先輩の嫁さんめっちゃ可愛いじゃないですか」などを世辞で言われて「いやあ、家事ダメダメだからなあ」などと嘯いてニヤニヤしつつかろうじて自尊心を保つのである。

そういう事が数年続いたのち、子供が出来てエコー画像の黒い丸を見ながら「ははあ、俺もついに父親か」「うふふ。私もママになったのね」などと思いながらも、芸能人の通っていた某A医院の評判が良いからそこで産みたいとか、いやいや、出産で80万も90万も払えねえよ、とかいう話を思い、しかしそれを直に言うと機嫌を悪くすることはこの数年で理解できてきているから互いに遠回し遠まわしに自分の意思を主張するようになってまどろっこしい事この上ない。

妊娠後期になるとホルモンバランスがおかしくなってんのか「どうせ男は関係ないしね」「子供産まなくてもいいもんね」みたいな刺々しい言葉が目立ってきて「いや、別にそんなことねえよ」とか言いつつもうすべてが面倒になり、飲み会の回数も増えてその都度知人や後輩に愚痴ることが続くんだけど、そうすると一時はストレスは減るものの一方で嫁さんの方は旦那が家事も手伝わずに飲み歩いてるもんだからイライラしてしょうがない、帰ってくるなり「いいよね、お酒飲める人は」みたいな嫌味を言うので旦那はますます家に帰りたくなくなる。そのうちに浮気する人は浮気して「妊娠中に浮気とかありえない!!!」などと嫁、嫁の友達巻き込んで滅多打ちにされて離婚したり土下座したり議員を辞めたりすることになる。

そういう事を経過してようやく子供が生まれて、ああ、よかったよかった。これが俺の子供か。私の赤ちゃんなのね。みたいになってもその嬉しい気持ちは持って数日であり、家に帰ったら泣きわめく子供に右往左往することになるのであって、そこに多少子育てを経験したことのある親類などが茶々を入れ「もっとこうしたほうが良い」とか「私の子育ての時はそういう事をしなかった」などと余計な事をぶつくさ言ってくるもんだから嫁さんのストレスもマックス、産後の体力低下などもあって産褥熱が出たりして旦那も仕事が忙しいときに会社を休まざるを得ず、すると理解の無い団塊世代の上司などから「何で男が出産だのなんだので右往左往してるのだ。女に任せとけばいいだろう」などと言ってきてまた憤慨することになる。

で、2か月3か月くらいすると赤ちゃんもようやく昼夜の区別がつきてきて、家族としても子供が一人増えたと言う状況に対応でき初め、余裕が生まれ、さらにはお互い共通のタスクとして子育てというものを共有し、ははあ。我々は一つの家族となったのだな。家族ってこういうものなのだなという実感がようやく芽生え始める。

そういう事を経過したころに、上記のようなもろもろを何にも知らねえクソガキが、クソまみれで泣きわめく赤ちゃんを知らずにたった一時の表面的な可愛さを選択的に抽出して「あーん可愛い」とか感想を表明するのはつまりそれ、そういう光景を見るたびに私は件の31歳児の真顔で見つめるのであり、そういう感情が根底には流れているのである。

ではその自分の脈々と続く地下水脈のような記憶を反芻するそのさらに奥で私が何を思っているのか。頑張れ。ということである。

上記までに述べたような事柄を根拠として「はっ、ガキが赤ちゃん可愛いとか言うけどなあ」とかいう説教をし始める偏狭なオッサン・オバハンみたいなのは必ずいるだろう。そんな建設性の無いアホは放っておいてよろしい。子供を産み育てると言うのは生物の本能として遺伝子にプログラミングされた潜在意識であるとともに人類が種として存続するために必要不可欠な行為でもある。生物として原始的な本能、欲求を社会性という理性の名のもとに抑制する中で子育てというのはその本能の爆発だ。本質的に素晴らしいものなのだ。

あなたたちが思い描いている「理想の家族」はフリーランチではない。しかし自分で料理することで実現可能ではある。やったことが無いことにチャレンジするのは必然的に苦労が伴う。それは仕方ない。しかしながら乗り越えることが不可能な壁ではない。明けない夜は無い。

もし誰かの手助けが必要になったときは、すでに子供を産み育てている人たちに助けを要請してほしい。きっと喜んで手助けしてくれるであろう。

小説「火星の人」(映画『オデッセイ』の原作)の終わりに主人公が次のようなことを述べている。大災害が起こったときには世界中から救援物資が届く。どんな文化圏にあっても助け合いの精神は共通している。なぜ人は助け合うのか。それは、人間が助け合う事は本能だからだ。そう思えない場面もあるけれど、それが事実だ。と。

子供を産み育てる事が遺伝子にプログラミングされたコードであるならば子供をかわいいと思う心も同じであり、助け合う事もまた本能である。であるから、私のように子育てを経験しているさなかの人、また子育てを経験し終わった人、発言小町に常駐してるようなアラフォー女子()はそっと彼らを見守ってあげてほしい。余計な口出しをせず、助けを求められたときに、そっと背中を押してあげてほしい。そういう行為を社会的と呼ぶのではないだろうか。

子育ては素晴らしい。新しいことにチャレンジする人も素晴らしい。新しく子育てにチャレンジする人はもっと素晴らしい。素晴らしいので頑張ってほしい。私は生命保険も入ったし後は任せた。