娘を嫁に出す父親の気持ち

掲題の件、私にはまだよっくわかりません。

先日、妹の結婚式に行ってきました。妹は「父が泣くのを初めて見た」と申しておりました。私は、ええっ、泣いてたかなあ?飽きてきた子供をなだめるので精一杯だったのか、泣いていたことすら気づきませんでした。

その前の記憶をたどると、嫁さんと「崖の上のポニョ」を鑑賞していた折に、最後で「そうすけ君」にポニョの父たるフジモト、声は所ジョージ、が、「あの、いいかな」と握手を求めるシーンがあるのだが、あのシーンでも嫁さんは音も立てずに泣いていた。「娘を嫁に出す父親のことを思うと・・・」と言っていた。ちなみにうちの嫁さんは超涙もろく、たいていどんな映画・ドラマでも泣く。自分の結婚式でも、神父に「一生愛することをチカイマスカ?」とか言われた時点で半泣きであった。

本日も本日とて、会社の同期の結婚式であって、友人が「娘を嫁に出す父親のことを思うとぐっとくるよね・・・」などとどこかで聞いたような台詞を述べ、挙式でバージンロードを歩くあたりで泣きそうになったと言っていた。その頃私はホワイトバランスとシャッタースピードのベストセッティングを探るのに熱中していた。いつだったか、誰かの結婚式で「皆さん大切な写真におさめておきたいという気持ちはわかりますが、しかし昨今はデジカメやスマートフォンを触る人が多くて拍手がさみしく感じます。どうぞ、大きな拍手を」という旨の説明を式場の人が述べていて、ははあ、その通りであるなあ。私はどちらかというとそういう人にあたるなあ。などととそれのみを思い出していただけであって、あまり娘を嫁に出す父親の気持ちを考えたことはなかった。

そういう感じで、私はとにかく結婚式で泣いたことというのはない。だいたい、自分の結婚式で泣かなかったのだから人様の結婚式で泣くわけが無いと思う。泣けば良い結婚式かというとそういうわけでもないし、私は別に泣いたとか泣かないとかで祝う気持ちに程度の差は無いと思うので、まあそういう気持ちで今日まで来た。

しかしながら私が思うのは、私は二人の娘を育てているのであり、その私が娘を嫁に出す父親の気持ちをわからずしてなぜうちの嫁さんや独身の知人がそれを分かるのだろう、という疑問である。

結局、人が人のことを理解するというのはもっぱら経験に頼った営みである。たとえばその昔、光市母子殺害事件があった際は私はまだ中学生であった。中学生の私は「ふーん、人間の屑だね。死刑にした方が良いんじゃない」程度の感想しか抱かなかったが、そのときと今とでは全く感想が異なる。今改めて事件の思うと、父親の無念さ、悔しさ、弁護団の異様さ、そういったものが非常によく分かる。大変な事件だったのだなと改めて思い知らされる。

中学生の私と今の私で何が違うのかというと、それはやはり経験である。彼氏と彼女の関係から、色々あって結婚することになり、色々あって子供が生まれ、幸せな家庭を築いていたところでの事件である。筆舌に尽くしがたい怒り、悲しみ、憤りを感じたことだろう。それが今ならばよく分かる。

それと同じように、娘を送り出す父の気持ちも、私は経験していないから分からないのだと思う。たぶんその時になってみないと私は分からないと思う。結局人間が心の底から共感するためにはともに同じ経験をするしか無いと思う。だから日本人がシリア難民の気持ちやアフリカの恵まれない子供たちの気持ちを類推するのには限度がある。本当に彼ら彼女らの気持ちを理解するには現場に行って経験を共有するしかない。

以上はごく当然のことだと思うが、しかしならばではなぜ、父として娘を送り出したことの無い妻や友人がその気持ちをうかがい知ることができるのだろう。それは当然、「おそらくこういう気持ちだろう」という推定の元に成り立つ感情の高ぶりに他ならない。逆に言えば、私はなぜそのような推定を行うことができないのだろう。

私は映画や小説、漫画などの作品で涙を流したということがおそらく人生の中で一度しかないと思う。それは、映画「パーフェクトワールド」を見たときだ。私が初めてそれを見たときはまだ6歳か7歳頃だったと思う。なぜハロウィンでトリックオアトリートを一緒にやってくれた優しいおじさんが死ななければならなかったのだろう。たぶん、私は子供だったからこそ、「パーフェクトワールド」が理解できたのだと思う。だからおそらく、大人になった今もう一度それを見ても泣くことはないだろうとも思う。

話が少しそれたが、つまり私が長年思っているのは、私はおそらくそういう人の気持ちをうかがい知る想像力に欠けているのだろうということだ。私は人の気持ちまでいちいち考えるのがかったるいと思っているので、どのような立場の人にも敬語を使い、ビジネス的な会話をするよう心がける。お互い不快にならなければオッケーじゃん、という考え方だ。それは浅いつきあいだろうか?さみしい人間関係だろうか?そうでは無いと思う。

今日、結婚式の終わりに会社の先輩が会社を辞めた同僚に対して「おまえと会うのはおそらく今生で最後だろうな。元気でやれよ!」と言っていた。私はなるほど、そうだろうと思った。特に仲もよくない二人が勤め先を別にして住むところも変わったらもう今生二度と会わない可能性が高い。そう、結婚式でも無い限り。

私が思うに、そのような今生の別れみたいなショッキングな出来事は私たちが深く考えていないだけでそこら中にあるのではないか。今生の別れは我々が思うよりずっとカジュアルな事象なのではないか。娘を嫁に出すよりも、こういうカジュアルな今生の別れの方がずっと重みがあるのではないかと私は思うのだけど、どうだろうか?なぜそれでも我々は、カジュアルに今生の別れをやり過ごし、人様の結婚式を見てああだこうだと思いを巡らせるのだろうか?

私はもうおっさんになった。おっさんとして生きていくほかない。