レインボーカラーの違和感

なんかSNSとかでレインボーカラー設定している人を良く見るようになってきた。

レインボーカラーはゲイ、レズビアン、バイセクシャル、トランスジェンダーなどのいわゆる性的少数者の社会運動に関するシンボルカラーになっている。で、ストレートな人がレインボーカラーを掲げて何が嬉しいのかというと、つまり、彼らは同性婚を認めたり性的少数者への差別をなくそうという社会運動に対して肯定的な見解を持っていますよ、と表明しているのである。

で、だ。Twitterでも書いたのだけど、色々思う事があるので書いてみた。

逆差別、反論すら許さない風潮への危惧

まず、私個人としては同性婚には賛成である。これで救われる人たちが居て、関係ない人たちの生活には何の影響も及ぼさないのだから、同性婚は認めて良いと思う。

しかしながら性的少数者の事を個人的に100%受け入れることが出来るかと言われれば、正直に答えるならば無理である。ゲイやトランスジェンダーは気色悪いと言うのが正直な気持ちだ。異性を好きになるというのは、数が多いという意味において普通な行為であり、対して、同性愛などは数が少ないと言う意味において異常な行為である。

もちろん、人間以外の動物においても同性愛的に見える行動があるのは知識として知っているし、そもそも無性生殖や単為生殖というものもある。というかそんなに回りくどく考えなくても、脳や心の複雑な仕組みによって性の感覚が一般的とは違うベクトルになってしまうこともある、というのは知識として理解できる。

それでも私は人間だから100%理論で押し通すことは難しい。私はストレートなのでそれ以外の気持ちを想像することは大変難しいし、人間は異性を愛し、異性と結婚して、異性と次の世代を産み育てていくことが普通だという考えを持っている。

つまり何が言いたいのかと言うと、異性を好きになるのが当たり前だし、同時に同性愛がおかしいと思う気持ちは半ば本能的なもので、そう感じる事自体は正しいということだと私は思う。もし性的少数者が「そういう感じ方になるように心が出来ている」という事を認めるならば、同じようにストレートな人たちがストレートであることを当たり前と思う心も認めなければ不釣り合いだ。

この考えは常識的だろうか?それともあまりにも同性愛者に対して理解が無い非常識な発言だろうか?これは道徳の微妙なラインの問題なので賛否両論あるだろう。しかし私は多くの人にとって受け入れられる意見であると思う。

一方でこのような考えでないような人も多いようだ。SNSなどを見ると、レインボーカラーを背景画像などに設定し、「同性婚推進!」みたいなことを日々書きこんでいるような人も居る。差別の対象になるものにたいして無制限に援助を行うような姿勢は危険だ。なぜならばそれは逆差別へと続くからだ。無制限な援助、無制限に受け入れることを(半ば)強要することで逆に差別を助長してしまう。それが逆差別だ。逆差別は悪い事だ。なぜならば逆差別は最終的に差別されている人々の不利益になるから。

これを性的少数者の件に当てはめて考えると、人は人を性的少数者であることを理由に就職採用を拒んだり、昇進を遅らせたり、暴言を吐いたりしてはならないが、一方で心の中で性的少数者を気持ち悪いと思ったり、同性婚法案に反対の意見を表明したりすることは常識的に許されるし、人間的な営みの一つであると思う。これを規制することは明らかにやりすぎだろう。

では、ゲイ(あるいはレズビアン)の友達から二人きりで飲みに行くことを誘われたら我々は彼らが性的少数者であることを理由に断ってはならないのだろうか。小さな職場でトランスジェンダーな男が女子トイレや女子更衣室に入るのを女性社員は無条件に認めなければならないのだろうか。これを受け入れることを強要するのは逆差別だろうか?拒否したら差別的なのだろうか?これは非常に微妙でデリケートな問題だ。

どこからが差別で、どこからが差別でないのか、どこから逆差別になってしまうのかの線引きをすることは非常に難しい。極端にそのラインがどちらかに寄ってしまうと、みんなにとって不利益な結果となってしまう。差別撤廃への社会活動と言うのは、そのラインが一方に寄りすぎだという共通認識の元、みんなで一緒になって、そのラインを一歩進めましょうという行動であるが、それはそのラインを「俺はこんなに進めた!」と自慢するための競争ではないし、差別されている人々は本当は美しい人たちなんだ!と勝手な妄想を作り上げて人にその価値観を押し付けるのもよくない。

我々がしなければならないのは、各々が自分に許容できる限界のラインでその線を引くことだと思う。それが差別される人々にとって最も良い効果を及ぼすのだと私は信じている。

ちなみに、逆差別というか反対意見を認めない風潮というのは往々にしてあるのであり、たとえば原発問題、沖縄米軍基地移設問題などがその好例だろう。活動が行き過ぎると結局「福島の人たちの気持ちが分かるのか!」「沖縄の人たちの前でそんなこと言えんのか!」みたいな感情論に押し込んで反対意見を強固に封殺し、かつ、その政治的な問題に対する立ち位置のみをもってして、その人を良いとか悪いとか総括してくる偏狭な人が山ほど湧いて出てくる。こういったことが良い事であるわけがない。

もうちょっと具体的な例を出すと、たとえばSNSで「ゲイとかレズとか気持ち悪いと私は思う。本能的に受け付けない」と書いたら、「なんて非常識なんだ」「お前はゲイとかレズの人の前でそんなこと言えるのか」って感情論に落とし込んで批判してくるやつが絶対何人かは居るだろう。しかしその真意は先に述べたとおりで、私はそういう感覚を持つ事自体は悪い事ではないと思う。むしろ人の心のあり方まで干渉してくる方が異常ではないか。

当人たちがどう思っているのか

次に私はストレートな人たちが「同性婚を認めよう!性的少数者の立場向上を」みたいな事を言っている人たちを、当の性的少数者はどのように見えているのだろうというのが気になった。

例えば私は3歳の娘を育てる父親である。私自身は男が育児に参加すべきとは思っていないし、子育ては女の仕事だとも思っていない。自分の嫁さん一人に任せきりにしていたら悪いと思うから、なるべく子供と遊んであげるようにしたり、家事料理をしたりということを積極的にする。それが子供にとっても良い影響を及ぼすと思う。そのことに対してなんら特別な主張や意見は無い。

一方、世間では「育児は疲れる」「子供にイラッとして人前で怒ってしまうことがあるのは人として当然」「国や地方自治体は子育て世代に対する支援が不十分でまだまだ足りてない」などのネガティブな意見を数多目にする。

例えば、そういう事を根拠にして今まで子育てしたことない人が「子育てって大変なんだねー、あたしには無理だわ(笑)」「子育てってお金かかるんでしょ?大変だねー」「男ってみんな育児しないでしょ?よく一人で耐えれるねー」とか言われたらどうだろうか?うるせえ、テメーに何が分かるんだよ。クソガキがって思うのではないだろうか。

他の例を出そうか。たとえばマツダ車好きな皆さんが車のこと全然知らない、免許もAT限定でペーパーな人が「マツダのディーゼルってすごいよねー。他メーカーの車なんてカスだよね(笑)見た目も外車みたいじゃん、格好いいよねー。ハイブリッドとかクソだよね」とか言い出したらどう思うだろうか?知ったかぶってんじゃねーよ、ボケと思わないだろうか。

また別の例を出そうか。「プログラマは35歳定年なんでしょ?ひどいよねー。管理職にならないと給料上がらないんだもんねー。俺は思うんだけどさあ、もっとプログラマの地位は上がって良いとおもうんだよね!そうやって活動してくべきだよ!」などとコンピュータをろくに触れもしない人間が言ってたらどう思うだろうか。うるせーぼけ、お前に何が分かるんだこのポンコツが、って思わないだろうか。

何が言いたいのかというと、結局その物事を知らない人が蚊帳の外からなんじゃりかんじゃり言ったところで大した説得力はないし、中の当人たちは冷めた気持ちでそれを見てるんじゃないかということ。今まで差別的な扱い…とまでは必ずしも行かなくても、冷たい言葉や態度を取られてきた人たちが、最近海外で同性婚に対する社会運動が広がってきた頃合いで「いやあ、俺も性的少数者の皆さんの社会的立場向上に関しては並々ならぬ問題意識を持っていてね、もっと差別撤廃に向けて皆が一丸となって行動すべき時期だと思うな」とか突然言われても「はぁ?」って感じなのではないだろうか。

結局人間は他人の事を理解するなんてことは絶対無理なんだし、そこは想像するしかない。その限界を知ったうえで我々が彼らのために出来ることがあるのであれば、やはり黙って同性婚推進を表明する議員に票を入れるとか、身の回りにそういう人が居たら自分の両手両足が届く範囲でそっとサポートしてあげる。そのくらいがベストなんじゃないかと思う。

まとめ

私がレインボーカラーを全面的に押し出して性的少数者への支援をSNSなどで表明することに対する危惧というか感じたことは2点。

一つはこういう活動が行き過ぎると反対意見をも封じようとする傾向も生ずる。これは逆差別につながるので性的少数者にとってもよろしくない。

もう一つはそもそも当人たちにとってそれが幸せかどうか分からないという点。1点目は確実にアカンと私は信じているが、こちらは私の単なる予想なのでそうではない可能性もある。

じゃあ私はどうすべきと思っているかと言うと、そもそも社会運動の源泉は差別をなくそうと言うことであり、そのために我々が出来るのは自分自身が少しだけ変わることである。少しだけ変わると言うのは、差別されている人のために我々が両手両足の届く範囲で出来ることを少しだけ広げてみるとか、社会運動について家族や友人の議論してみるとか、デモ行進があったら参加してみるとか、しかるべき時、しかるべき言葉や行動で示せばいいだけであると思う。だから常日頃から主張しているのはなんかおかしい気がする。

※まっとうなデモだと仮定