【雑談】街並みと定常社会

電車の窓から街並みを見つめると、よくもまあ、こんなに建築物を建てたものだと思う。

私は田舎に住んでいたので、これほどまでに高層建築が並ぶ景色はいまだに目新しく思える。その一つ一つがまるで植物のようだ。日光を求めて天へと成長していく植物。

インドに行った時に、建設現場に親が出稼ぎ労働をしているために学校へ行けない子供たちがおり、そのような子供たちのために移動教室を展開しているNGOの活動に参加するという経験があった。インドでは出稼ぎをする場合に単身赴任するということは普通せず、家族全員が揃って現場に引っ越す。しかし現場というのは何もない郊外に高層マンションを建てるようなところであるがために、生活する場所はテントや掘立小屋になる。当然、付近に学校が無いので学校にいけない。という塩梅になっている。

学校にいけない子供たちと言うと、いかにも可哀想な響きに聞こえるが、当の本人たちを目の当たりにするとそのような感覚は失せた。子供はやっぱり元気だ。紙飛行機を教えると夢中になって飛ばしている。泥だらけの道で、大型ダンプがスタックした跡のある大きな水たまりを超えた先には建設中の高層マンションがあり、そこに竹で組んだ足場が組まれている。大型重機はほとんど無く、人力に頼っている。それは人手をかけることによって雇用を確保するためだと聞いた。その人たちそれぞれの昼食は「ダバワラ」と呼ばれる弁当運びが運んでくる。インドでは弁当は家族が作るのが当たり前らしい。そのために弁当配達サービスが発達している。ダバワラはSigSigmaを実現した高度な弁当配達サービスだ。そういう種々の文化を目の当たりにすると、なんだか日本よりも人間味があってあたたかいような印象を受ける。子供たちが大人になるころ、インドはどうなっているだろうか。

私には政治や経済の知識があまりないが、それでも今後の日本とか成果がどうなるのか想像することはある。極度に成長した社会は、ゼロ成長な社会になるのだと思う。現代の経済は、その国の労働人口や教育レベルに見合った経済成長率が続くことが健全とされている。途上国ではより高い成長率を必要とするが、先進国では途上国ほどの経済成長が無くとも維持はしていける。しかしゼロではない。自然に経済成長率がゼロになるようなストーリーは思いつかない。

しかしそれでも最終的にゼロになるのではないかと思うのは、人類が生活を数百、数千年という長いスパンに渡って生活をすることを考えた場合、経済成長率がプラスでは資源が枯渇するからである。長いスパンで生活を維持するためには、ある程度のレベルで生活環境を固定化し、使用する資源のほぼすべてを循環できるようにしなければならない。そのために必要な技術や生活方法は、宇宙ステーションで必要になるそれと同じようなものになるだろう。

そのような社会では貨幣の概念も大きく変わっていくと思われる。現在、貨幣を所有する人は任意のタイミングで任意の量を取り出し、何かの製品やサービスを得る対価としてそれを支払う。しかしながら、震災直後のガソリンや生活必需品の買い占めに見られるように、誰かが財力などをもってして物資を独占できるようなことはあってはならないと思う。つまり、高度な循環型社会では貨幣にはその行使に何らかの制限を行うことが望ましい。が、この言い方は現代社会向けの言い方である。理想的なのは制限を設けるという発想ではなく、たとえば労働によって得られる貨幣は生活必需品を買うのに必要な額と同等であるとか、自然に富の独占が発生しないような仕組みになっていることが望ましい。貨幣を個人や法人の信用の大きさのみに依存させ、相続という仕組みを無くしてもよいかもしれない。

社会の仕組みは共産主義に近いものになると思う。そもそもマルクス主義はそもそも高度に発達した社会が到達するものだと説明されている。ただし政策を決めるのは人間でなくコンピュータになるだろう。労働力のほとんどはロボットによって肩代わりされる。人間は働かなくても生活できるようになるが、仕事をしなくなることは無いだろう。仕事の概念は変化し、富を生み出すことが目的にはならなくなるはずだ。

公的サービスはどうなるだろうか。よく、北欧は福祉サービスがしっかりしているだとか、アメリカでは長らく国民皆保険制度でなかったとか、良くそういうことが言われるが、結局これは方針の違いということに帰着されると思う。公平性を重視するのか、自由と個人の選択を尊重するのか。個人的な好みで言うならば、公平性は重視しなくとも良いから、実力のある人が評価されて伸びやすい社会が実現されて欲しいと思う。稼げば稼ぐほど課税されるなどごめんだ。

自然はどうだろうか。バイオマスエネルギーの活用などという話が良く聞かれるが、それよりもより手っ取り早い直接的な動植物の活用が遺伝子工学によって可能になるのではないかという気がする。つまり、バイオマスエネルギーを発電に用いてエアコンをガンガン利かせるよりは、広くてデカい葉っぱをもち、成長が早く、劣悪な環境でも耐えられる樹木などを開発し、日陰を増やした方がより手っ取り早いと思う。あとは、ビルとビルの合間にネットを張り、重い種子を作らないように改良されたつる植物を這わせるとか。

人がいる空間が日陰になれば間違いなくエアコンに必要な電力は減るし、蒸散による気化熱で気温を下げる効果も期待できる。同じように、劣悪な環境でもよく成長する野菜が開発されれば、植物工場を作るよりは低コストで大量生産できるようになるだろう。循環型の社会で大量に余るような有機物があれば、それを大量に摂取して成長するような性質を組み込ませてもよいかもしれない。私は生物学者ではないのでどこまで可能かは知らないが、アイディアだけだったら無限に出せると思う。

しかし遺伝子工学の利用というと、遺伝子汚染による生態系への悪影響が心配されるという意見もあるだろう。これはごもっともな意見でもあるが、しかし、自然を守るという定義も再考する必要があるだろう。そもそも守らなければらならない自然とは何か。自然を守るとはどういう状態が理想であるのか。木を植えて森を増やすのが自然を守ることに繋がるだろうか。人間が木を伐らなくなったために太陽光が地面に届かなくなり、背の低い植物が育たなくなって生態系が変化してしまったという話も聞いたことがある。

動植物の形態や比率は、生命が地球に誕生してから常に変化してきた。そのダイナミクスを人間の手によって制御しようとする発想自体が私には少しおこがましく聞こえるというか、人間の思い上がりというか、第一本当にそんなもん(自然を守ること)出来るの?という気持ちになってくる。

発電はどうだろうか。なんとも私には見当がつかないが、電力需要が今後上がり続けるというストーリーは考えにくいので、発送電施設は現行のものよりもむしろ小規模でシンプルなものになるような気がする。都市単位に小型の原子炉や核融合炉が置かれるのではないだろうか。出力変動は蓄電池によって制御する。そもそも不安定な再生可能エネルギーに頼る必要がないかもしれない。 電力の規格、すなわち50~60Hzで100V~230Vというものはしつこく残るだろう。

原子炉は水素製造にも使えるし、技術的にこなれてきているので何だかんだ言ってかなりのスパンで利用されるのではないだろうか。静的安全系を有してそれがまともに機能するようになればそれほど大きな問題は起こらない筈だ。

そういえば、震災後あたりだったか、「放射能が無い世界だったらよかった」「放射能などという危険な物質は社会に要らない」という、放射性物質そのものを嫌悪するような論調をよく聞いた。が、放射性崩壊というのは単なる物理現象である。それ自体に良いも悪いも無い。放射能が無い方が良いと言うならば、私に言わせれば「重力さえなければ体重という指標も無かった。ならばそこから太っているとか痩せているとかいう偏見が生まれることも無かった」という意見と同じくらい荒唐無稽なものに聞こえる。そもそも鉄よりも重い元素は超新星爆発で発生したものと考えられている。人間の体の一部はそもそも放射性廃棄物でできていると言える。

また、その大昔、ウランの放射性同位体の重量比がまだ高かった時は天然の原子炉があったとされ、実際、そのような証拠が見つかっている。つまり連続的な核分裂反応というのは、自然界においても普通に起こりうる現象であって、たとえば発火や燃焼などといった現象と本質的な違いは無いと思う。

再生可能エネルギーと言うと聞こえはいいが、それを系統が受け止めるためには何らかの大規模な蓄電設備が必要になる。ではシムシティで出てくるようなマイクロ波発電はどうであろうか。これも地球環境保全の観点から言えば私は懐疑的である。結局地球と宇宙の間の熱収支を変えているのだから、自然界に与える影響はゼロではない。

という事を考えながら電車を降りるとき、押しのけて去っていく女。電車で我先にと人を押しのけて降りたり乗ったりしてくるのはババア、ジジイ、30~40代の女の順に多い気がする。我先にと空き席を確保すべく走って行く姿は滑稽ですらある。