物事の本質を理解するということ

私は毎回疑問に思うことがあって、それはつまり、人情とか人の絆とかいうものである。

高校生の時、とある体育教師がいて、私はその人の軽い感じがあまり好きではなかった。お調子者的な感じで、生徒に対してもなれなれしく喋りかけ、いかにも自分は「高校生の気持ちをわかってる、同じ目線でしゃべれる先生」だという感じを醸し出していた。そうやって若干媚びてるとでも言うのだろうか、そんなところが私は機体だった。その先生が保健体育の時間にこういうことを言った。

「金が無いなら子供を作るんじゃない。愛があれば大丈夫とか、ドラマや漫画でよく言ってるけど、あんなもんはまやかしだ。愛はメシ食わせてくれない。労働して金を稼いで飯が食えるんだ。ガキが子供を産んで誰が食わせていくというんだ」

私は先生の言うこの言葉だけはすごく気に入った。「愛はメシ食わせてくれない」その通りである。人情や気持ちや心、愛などといったものだけで世界が救われるというのはまやかしであると思う。

大人になって社会の荒波にのまれつつも私は必死で日々を泳いでいるのだが、しかしながら疑問なことは、「やっぱ人情だわ」みたいな論旨の発言が度を越して過ぎているような気がしてならない。

たとえば記憶に新しいのは3.11の震災後の「絆」であろうか。

人々の絆、具体的には地域のコミュニティだとか、困ったときの助け合いだとか、そういったものは重要であろう。それを否定するつもりはない。しかしながら人は人を無制限に助けることは出来ないし、困ったときに助け合える心の余裕は平時に災害への備えを十分にして、行政や地方団体による支援体勢が整っており、「今を乗り切れば救助が来る」という希望的観測を持てる状況であるからこそ生まれるものだと思う。

災害などの非常事態において重要なのは、まず物質的な直接支援、具体的には衣食住、医療、インフラの復旧などである。逆に言えば、そういうものが提供されることが担保され、そしていずれ実際に提供されないと絆などという感情は醸成されない。

大災害が発生し、当面の支援がひと段落して落ち着いた後に我々がすべきなのは、そのような体制や実施方法に不備がなかったのか、もっとより良いやり方が無かったかを反省し、得られた知識を共有して次の災害に備えることであろう。しかしこういうことは地味で手間がかかる割に、成果が目で見えにくいので感動的なエピソードなどに比べるとあまりクローズアップされることは無い。

人が感動的もしくは悲劇的なエピソードを知り心動かされることがあるのは人間であるのだからしょうがない。そして、そういう事象がクローズアップされ、世間に広まってもある程度はしょうがない。それがダメと言うつもりもない。むしろ助け合いの心はもっと広まってしかるべきだろうと思う。

しかしながらそれだけでは何も解決しない。何も進歩が無い。愛がメシ食わせてくれないのと同じように、絆は人々の心を温めることはあれど、メシは食わせてくれない。

原発問題について

著名人はなぜ原発問題について口を挟みたがるのだろう。坂本龍一氏や山本太郎氏がその主たる例だ。彼らは原発はどのように悪く、どれだけ害悪で、すぐに原発を停止させることがいかに正義で、原発を動かそうとする人間がいかに悪であるかを説明するのはとても上手だ。しかし、ではなぜ日本に原発があるのかという背景を説明したり、原発を停止してどのように将来の日本の電源を確保していくかの道筋を説明したりはしない。

坂本龍一氏は「僕らは代替案なんてなくても”原発反対!”って言ってればいいんだ。代替案は行政の仕事」という主旨の発言をしていたが、この一言に彼らの言論は集約されるであろう。原発は怖い。恐ろしい。原爆と同じ技術である。人間の闇である。悪である。あんなものに頼るべきではない。止めるべきだ。では、今後の電源をどのように確保するか?そんなものは知らん。お前らで勝手に考えろ。お前らが原発始めたんだからお前らの責任だ。俺は知らない。俺は専門家じゃない。俺に聞くな。ということである。

これは大人としてあまりにも無責任な言論である。そもそも原発を推進したのは国家戦略からであり、国会議員は国民によって選ばれた人員でなりたっているからである。民主主義では人民が国家を統制しなければならない。国家を統制する人民が「俺は難しいことなんか知らん、お前らの仕事だろ。とにかく上手くやれ」なんて態度では国会議員は好き勝手し放題である。(そういう意味では、山本太郎氏は選挙に当選して議員になったから筋を通していると思う)

一般人ならまだしも、彼らはそれなりにメディアに露出する著名人なのである。難しい現象が起き、難しい問題に直面した時、それに対してああだこうだ口を挟みたいのならば、せめて基礎的なことくらいは勉強してから口を挟んでもらいたい。

原発問題は、原発をやめるか続けるかという二者択一の問題ではない。今後の日本のエネルギーをどのようにして確保するか、というエネルギーセキュリティの問題である。そもそも原発と核燃料サイクルというのは資源の乏しい日本が今後長期的に持続可能な社会を成り立たせるために必要な技術であるから推進していたのである。

では原発はどうするのか。より強固なものにして続けるのか。もしくは全廃して再生可能エネルギーで補うのか。太陽光発電なのか。だったら、パネルメーカーの仕様表から面積当たりの発電量を計算すれば原発を代替するのに必要な面積が分かるだろう。おおざっぱなコストも算出できるだろう。そしたらその実現可能性くらいは大ざっぱに判断できるはずだ。

しかしながらそういうことまでを踏まえた論を展開している、ミュージシャン、芸能人、芸術家などの著名人を私はただの一人も見たことが無い。たったそれだけの、義務教育レベルの知識を導入すればわかる事すらやっていないのはどういう事だろう。それすらを専門的と断ずるのであれば、義務教育で学んだ知識すら活用できないバカである。

また、電力会社と国は責任を果たしていない!などという主張もよく見受けられるが、では責任を果たすためにどういうことをするのが良いのか、という具体的な主張すらも見えてこない。ジジイが市役所の窓口の姉ちゃんに意味不明なことを喚き散らしているのと同じである。「俺が気に入らないことはやるな、俺の考えがグローバルスタンダードで正義だ、それが分からん奴はバカだ」と言ってるように聞こえる。

戦争について

同じように著名人は戦争について批判することが多い。「戦争ではこんなにたくさんの市民が犠牲になっている」「戦争はこんなに悲惨である」「こういう政策は戦争の引き金となる」ということをしょっちゅう言っている。

しかし、何が戦争の引き金となるのか、戦争を防ぐにはどのようなことが必要なのか、そもそもなぜ戦争が発生するのかという本質的な議論は一切しない。これらの議論は日本国が平和に発展していくためにぜひとも知っておくべきことだろう。でも彼らがするのは戦争の恐ろしさや愚かさを強調するだけで、対処方法や防ぐ方法を論じてはくれないのである。

戦争は政治の延長である。戦争とは政治が失敗した結果である。ある国が現状を変えたいという願望があり、それを変更するために被る犠牲がある。現状を変えることによるプラスが、被る被害のマイナスよりも十分に大きくなったときに戦争は発生する。政治がすべきなのは、そういう状態にしない、させないという長期的な戦略であって、であるからして、軍事的均衡だとか、地域におけるプレゼンスとか、そういうものが重要なのである。

中国が不透明な軍事費を増長させている。韓国に接近して取り込もうとしている。中国はたびたび日本の軍国主義化を批判するが、それは「地域の軍事バランスを崩そうとする日本に対して、アジアの平和を守る中国がバランスを取り戻そうとしている」という構図に持っていきたいだけである。そういう状況下にあってなお、「こちらが武器を持たなければ相手も持たない」などという論理は通用しない。

軍事力の均衡が平和に寄与するというのは、一部の人にとっては認めたくない事実であろう。恐ろしいものは見たくない。聞きたくない。だから蓋をする。そういうことを大人がやってはならない。

危険なゼロリスクの思想

思えば、原発の反対でも、集団的自衛権の容認の件でも、どうもゼロリスクを追い求めている人がいるように思えてならない。

原発は危険である。だから日本からなくすべきである。そうすれば原発がメルトダウンを起こすというリスクはゼロになる。その通りである。リスクはゼロであるほうが好ましい。これは「原発をやめるか続けるか」という部分にだけフォーカスすると帰結しやすい結論であろう。

しかしながら、既に述べたとおり、原発問題は原発をやめるか続けるかという二者択一の問題ではなく、今後の日本の電力を中長期的にどのように確保していくかというエネルギーセキュリティの問題である。これは、そもそも原発がなぜ日本にあるのか、電気はどのような原料をどのような経路で調達し、どのように電気を生み出すのか、そもそも電気にはどういう物理的な性質があるのか、という基礎的な部分を理解している必要がある。しかしいずれも専門的な知識は不要で、義務教育のレベルで十分理解できる内容だ。

それを理解している人たちと、理解していない人たちがいて、お互いの論旨がかみ合っていない。どうも、種々の議論を眺めているとそんな気がしてくる。

集団的自衛権も同じではないだろうか。集団的自衛権を容認すれば、自衛隊が何らかの脅威にさらされる場面が今よりは多くなる、とまでは言えるだろう。その延長で、どこかの国が日本に難癖をつけてくることもあるかもしれない。そういう可能性はゼロではない。

しかしだからと言ってゼロリスクを追い求めて集団的自衛権に反対してもあまり意味が無い。それは、集団的自衛権を容認しないことのリスクを勘案していないからである。すべての判断にはリスクが伴うのであって、各々の選択肢のうち、リスクに対して得られるメリットがどれだけあるかということをどのように見積もるか、ということが重要なのである。つまり、自衛隊がいかにして武力を行使するかどうかだけを見ていては本質的な部分は見えてこない。現在の国際情勢や、国同士の同盟関係、それぞれの国が果たすべき義務や役割というものを考える必要があるだろう。

そもそも集団的自衛権は、自衛隊が友軍の駆けつけ警護をできないなどという問題に端を発する。最初にやりたかったことをどう解決するか、というのが議論の筋であると私は思うが、現在では徴兵制度が復活して日本の学生が戦地に赴くなどという開いた口がふさがらない論まで見かける始末である。そうやって不安をあおり、ハイリスクとリスクフリーの二者択一のどちらが良いかというふうに迫る論法をいつまで続けるのだろうか。

まとめ

ある事象や問題が発生した時には、まずはその本質を理解することが肝心である。

勘違いしないでほしいのは、私は集団的自衛権や原発の再稼働に反対の立場を取っている人が間違っているというつもりはない。より良い議論を行い、より良い結論に至るためには物事の本質を理解したうえで両方の意見に耳を傾けてもっとも最適と思われる着地点を見つけるべきである、というのが私の主張である。ごくごく当たり前のことであるが、これができていない人が多いと思って書いてみた。

ある問題があり、議論が二分化されているような状況では、お互いの論旨を追っていくだけでは問題の本質は見えてこない。それはどちらの論者も自分にとって都合の良いことしか言わないからである。しかしながら、特に政治問題に関してはどのような本・メディアであっても、必ず書き手のバイアスがかかる。まったく中立的な視点の記事などありえない。

その様な場合は数多の情報を参照して自ら判断を行うしかない。それはとても面倒で時間のかかる作業であるが、ある問題が発生していて、その議論に加わりたいのならば本来やっておかなくてはならないことである。

ましてや、感情に流されることなどあってはならない。何事も愛が救うというという事などあり得ないのである。特に政治問題に関しては、「人が死んでんねんで!!!」「子供が可哀想!!!」「この人でなし!!!」「これはもう人権問題じゃ!!!」みたいな調子で感情を煽ってくる人を良く見かけるが、いずれも自分の感想を述べているだけで何ら実のある発言をしていないことによく注目して頂きたい。

こういう人は、人の感情に訴えかけて持論が正しいと納得させる戦法を取ってくるが、そういうことをしていると、議論は空回りして最終的には論者の人格まで攻撃することになるだろう。日本人にはこういうタイプが多いのがとても残念であると思う。