風立ちぬを見た感想

かなり今さらだけど、「風立ちぬ」を見たので感想を書く。見ている人でないと分からない記述が多数あり。ねたばれもあり。

序論

私はジブリ作品は結構好きで、ほぼすべての作品を見ている。宮崎駿の漫画も好きで、「風の谷のナウシカ」や「飛行艇時代」も読んだ。一番好きな作品は間違いなく「紅の豚」である。私は飛行機、特に第二次世界大戦期の軍用機が好きだ。軍オタと言っても良い。

この作品が公開される前に、「人を殺す道具と、それを作る(好き)という行為のパラドクス」が描かれるという事が宣伝されていたので、私は大いに期待した。私も小さいころは、戦争ゲームをやりこんでいて「それ、ゲームと言えど人を殺す道具なんだからな」などと親に言われたもんだが、好きなもんは好きなのである。好きだからと言えども、軍オタが全員殺人鬼の気質があるかと言われればそれは論理の飛躍である。では、なぜ好きなのか。それに対して答えが出せるのであれば私も知りたいと思っていた。

というわけで、私は公開前から本作には大いに期待していた。しかしながら、劇場公開時期は仕事での忙しさが重なったり、インドへ長期出張になったりとで映画館で見ることは出来なかった。なのでブルーレイ化を楽しみに待っていたのだった。

感想

結論から言うと、私には何も面白くなかった。「飛行機とサナトリウム文学をセロハンテープでくっつけた」、それが正直な私の印象だ。

庵野の棒読み

主人公・堀越二郎を演じる声優は庵野秀明である。代表作が「新世紀エヴァンゲリオン」の、あの庵野秀明である。私は初めてそれを知ったとき耳を疑った。

時折、ジブリ作品において非声優を声優として起用することに対する批判が起こる。これに対して宮崎駿は「声優が出す声はわざとらしい」という旨のことを述べている。確かに、これは私も一理あると思う。アニメの声優というのは、いかにもアニメであるという雰囲気が出てしまうところがあるように感じる。感情表現の度が過ぎているというか、声色を変えすぎというか。たとえばドラえもんやポケモンでそれをやるならば自然と思うが、もう少し大人向けの作品ではふさわしくない場面もあるだろう。実際、これがうまくいった例もたくさんあるように感じる。

だから、今回もうまいことやるのだろうと思っていた。しかし、ふたを開けてみたら「度の過ぎない自然な感じ」とは程遠く、ほとんどセリフ棒読みに近い。その時々で主人公がどういう感情を持っているのかを判別できない。どういう感情を持っているのか、声以外の部分から想像することになるので、ごくわずかしか感情移入できない。

当然のことであるが、人の感情を表す手段のうち、声が占める割合というのは非常に大きい。声のトーンによって感情を表すのは犬猫もやっているくらい原始的な行いである。原始的というのはそれだけ本能に訴えかける力があるという事であると思う。その重要な声が棒読みでは・・・。

庵野秀明は宮崎駿に「零戦を描けるのなら描きたい」と伝えたところ、それより声優をやってみないか、と打診されたのだそうだ。率直に言えば、私は声優ではなく零戦(というか飛行機)を描いてほしかったと思う。

菜穂子との恋

本作品は、私は「飛行機を愛する自分と、人を殺す兵器を作る自分が併存するパラドクス、葛藤」などを描いた作品なのだと思っていた(当初そのように報じられていた)のだが、見終わってから思い返してみると、どちらかというと主人公と菜穂子との恋愛模様が中心になっているような印象を受ける。

しかしながら、まず二郎が菜穂子を好きになっていく心理描写に乏しいのに加え、先に述べたように声が棒読みなのでここでも感情移入できない。なぜ、震災の時にわずかな時間一緒にいただけで好きになるのだろうか。そしてそのわずかな時間にしても、菜穂子との会話は必要最小限に限られているといった感じだ。

さらに言えば、どちらかというと二郎は菜穂子ではなく、女中のお絹を好いていたかのような描写がいくつかある。二郎は骨折したお絹を真っ先に助け、商売道具である定規を躊躇なく添え木にした。これだけならまあ、普通のことのように思えるが、その後定規が届けられたときも真っ先に思い浮かんだのはお絹の姿であった。菜穂子が届けたということもありうるのに。後に再開した時も、二郎は菜穂子のことをすぐには思い出せなかった。対して、菜穂子は二郎の事をずっと慕っていた、という旨のことを述べており、それに応じて私も実はあなたの事を好いていた、という旨を言っている。どちらかというと菜穂子が二郎を好きで、二郎がそれに応じたという印象を受ける。

もしその複雑な心模様を描きたいのであれば、その描写は必然的に難しくなる。二郎はお絹を好いていたが、お絹はすでに結婚していた。そして自分を好いている菜穂子がいる。しかも彼女は結核である。そういう人を嫁に貰い、死にゆくさまを見つめるのである。それは相当に複雑な心理状態である。だから描写が難しくなるのに前述したように感情移入できないのに加えて、そもそも登場人物の心理状態に関する描写に乏しいのでそれを想像するのが難しい。

これを「分かる人だけ分かるのであればいい」と断ずるのは簡単であるが、しかしそれであればあまりにも深みが無いと思う。ごくわずかな伏線だけを用意してまるでクイズを解かせているかのような感じだ。

いや、上記のようなことは私の深読みが過ぎていて、最初から二郎は菜穂子の事を好きだったのだ。という事であれば、それはそれでまた描写に乏しいと思う。

飛行機と戦争

先に述べたように、本作品はどちらかというと飛行機というよりは菜穂子との恋が主軸になっているような印象を受けた。そもそもキャッチコピーが「生きねば。」であるが、これは明らかに菜穂子との恋とその先にある死を前提としたものである。

その一方で二郎と飛行機の描写が中途半端であるように感じる。あれを最初から最後まで見て、二郎が飛行機にかけていた熱意というのは正直あまり感じられなかった。

wikipediaを参照すると、宮崎駿は

「この映画は戦争を糾弾しようというものではない。ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞しようというものでもない。本当は民間機を作りたかったなどとかばう心算もない。自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである」

と述べている。これはとても素晴らしいと思う。戦争を糾弾する。零戦の優秀さを描写する。本来は民間機を作りたかったなどという言い訳も無い。そういう子供っぽいしょうもない要素を排除した、それはとても良いと思う。

戦争は戦争である。兵器は兵器である。日本は連合国に大敗して国土は焦土となった。現代のわれわれはその歴史と戦争にかかわってきた産業と技術の上に生活が成り立っている。その泥臭い事実を事実として受け止めるのが大人であり、戦争が悪いとか兵器は良くないとかいうのは子供じみた理想論である。

自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである」とは、そういったことを踏まえたうえで、技術者として生きた一人の人間をありのままに描きたい、という意味だと私は理解している。しかしながら先に述べられたようにそのテーマをこの作品から理解するのは難しい。

なぜ二郎は飛行機が好きになったのか。なぜ飛行機が好きなのに兵器を作らなくてはならなかったのか。自分の作った飛行機に青年が乗り込み、南方の海で散り、果てはアメリカ空母艦隊をめがけて自爆していった。その心情の描写は一切ない。デリケートなテーマなのでこれをアニメにするのはとても難しいだろう。

遺族(堀越二郎の長男)が、父は零戦が好きではなかったが、宮崎駿が零戦を描かずに試作機の完成までで話を終えているのは凄い、と評している。しかし私はむしろ、その泥臭い見たくない部分まで描いてほしかったように思う。そう思うのはやはり、公開前にそれらの葛藤が描かれる、というような宣伝があったからだろう。したがって、これは私の勝手な思い込みと願望と言えるのだが、それでもやはり残念で仕方ないと思うのである。

終わり方

あの終わり方は多少投げやりなように感じる。菜穂子は自分がいちばん綺麗な瞬間を一番好きな人に見てもらいたかった。だから病院を出て二郎のもとにやってきたのだった。それは分かる。

しかし、それを踏まえたうえで最期を看取る、とか、その事実を知ったのは本人がすでに亡き後であった。などというのであれば納得がいくが、物語の最後は菜穂子が手紙を残して去って行っただけで、死の明確な描写は無い。二郎が虫の知らせというのだろうか、何故か菜穂子の死を突然にして悟った、というような終わりになっている。その後破壊された航空機の破片などのイメージが続き、「生きねば。」で物語の幕が閉じる。

この作品はそれなりに重い題材を扱っている。ならば、戦争や人間の死にゆくさまを描画しても良いというか、すべきであるというか、ちょっと難しいところだとは思うのだけど、少なくとも一切描画しないという選択肢を取ったのは疑問である。

菜穂子が出て行ったのだって周囲の人間がすぐに気付いたのだから、少なくともその時点では菜穂子は死んでいないだろう。そしたらすぐに二郎に伝えるはずだ。二郎がそれを知ったらすぐに追いかけるはずだ。しかしそれが描かれることがなく、なんとなく死を察した、みたいなあいまいな終わり方をしているのはどうなんだろう。まるで見たくないものに蓋をして美しいままに物語を終わらせようとしている不自然さすら感じる。

宮崎駿は本作品を映画化するに当たり、「アニメーション映画は子どものためにつくるもの。大人のための映画はつくっちゃいけない」と映画化に対して反対の立場を取っていたそうだから、本人なりにポリシーは通したともいえなくもない。しかしそれならばなぜそもそも映画化したのか、と私は思ってしまう。

テンポが悪い

やはりある程度は史実に基づいて描写しているという面があるからなのだろうか、テンポが悪いように感じた。もちろん、テーマがそれなりに暗く重いので、小気味よいリズムでぽんぽん、と進んでいく必要は無いのだけど、それにしても説明的なシーンが多くて飽き飽きしてくる。

あくまでも私が感じた勝手な感想であるが、この作品はまずはじめに妥当と思えるプロットがあり、そこから導き出される妥当な結論があり、それを描くために必要なシーンを重ねていったらこうなった。という雰囲気を感じる。

必要なシーンは当然、必要であるから描く。そうしないと起承転結が破たんする。それはそうなのだが、あまりにも必要性に迫られたシーンはどうしても説明的になる。説明的になると飽きてくる。

世間の評価

以上のようなことについて世間一般の人はどう思っているのだろうと、ネットでの一般の人々の反応をうかがったが、やはり否定的なコメントが多かったように思う。良い評価を付けている人も居るには居るが、「この面白さを分からない人は感受性に乏しい」とか、「映画は自分の鏡であり、面白くないと思うのは本人に原因が内在している」などといった、ちょっと意味が分からない精神論を述べていることが多く、具体的に何が面白いのか、どういったところが共感できたのかという意見を知ることは出来なかった。(Yahoo映画情報というソースが悪いのかもしれない)

紅の豚について

私はどうしても飛行機が出てくるジブリアニメということで紅の豚と比較してしまう。

本作と比較すると、紅の豚は本当に良くできていると思う。真っ赤な飛行機と青い大空で構成されるシーンが多く、まず目で見て美しい。ポルコの飛行艇が復活してジーナの前で曲芸飛行するシーンなどは、本当に素晴らしいと思う。それに至るまでの悲惨な撃墜の過去からの復活といった経緯もありより一層美しく見える。また、物語のテンポもよく、次はどうなるのかと展開が常に気になってワクワクするようなストーリーだ。

若いころから飛行機に魅せられていたポルコと、一緒の時間を過ごしたジーナがいて、それからジーナはポルコの親友と結婚し、親友は戦争で死んだ。ジーナは3回飛行機乗りと結婚して、皆死んでしまった。ポルコ自身もそうした時代を生きながらも飛行機に乗るのをやめなかった。時代背景として恐慌とファシストの台頭が描かれている。そういう暗い過去、時代背景を押しつけがましくないように物語にうまく織り交ぜているのは本当にうまくできているというほかない。

技術者としての熱意のようなものもピッコロ社のオヤジによって良く表現されていると思う。どの分野においてもトップに立てる人というのは、ある物事に対する純粋な興味とか、楽しさとか、好きという気持ちを突き詰めていける人である。なぜならば、義務感や正義感で大きな仕事を成し遂げるのは不可能であるからだ。その点で言えばピッコロ社のおやじも、何をするにも楽しそうでその本質をうまく描写しているに感じる。

「人を殺す道具と、それを作る(好き)という行為のパラドクス」のような問いに対する葛藤や答えとしても、紅の豚の方がよほど上手く表現されていると思う。ポルコは大戦中に活躍したエースパイロットだった。戦後は「殺しをやらない」賞金稼ぎ。殺しをやリたくないのであれば戦闘艇に乗らないという選択肢もあったはずなのに、それでも戦闘艇に乗っている。「飛ばない豚はただの豚」、それがどういう意味かは作中で語られる本人の生き様にあらわれているのだと思う。

といった具合に、どこをどのように切っても素晴らしいと思える間違いなく良作である。

 

まとめ

全般的に良いところがあんまり無い。殆どのシーンを必要に迫られて書いたかのような雰囲気を感じる。作者が描きたいこと、伝えたいことの熱意があんまり伝わってこない。繰り返しになるが、まずはじめに妥当と思えるプロットがあり、そこから導き出される妥当な結論があり、それを描くために必要なシーンを重ねていったらこうなった。というような印象を受けた。

この感覚は「世界の中心で愛を叫ぶ」に非常に近い。あれも私にとっては非常に単調でつまらない映画であった。途中で眠くなった。まず結論がありきで、そこに至るまでのプロットがあり、場を盛り立てるエピソードをエッセンスとしてちょちょっと加えたらこうなりました。という感じ。それと似ている。

人それぞれ、いろいろな感じ方はあるだろう。それを否定するつもりは毛頭ない。この作品を見て、涙した。それはそれで良いことだと思う。数多の賞を取った素晴らしい作品である。映画を評することを仕事にしている人たちから一定の評価を得ている。それは事実であるし、重視すべきだろう。しかしそれでも、万人が面白いと認めたとしても、私は面白くなかった。ジブリ作品の多くを私は繰り返し見ているが、この作品はたぶん二度以上見返すことは無いだろうと思う。

宮崎駿は本作品の映画化に当初反対している。「風立ちぬ」は元々は漫画だそうだが、登場人物は「擬人化された豚」として描かれているそうだ。「宮崎駿の雑想ノート」「飛行艇時代」などの作品を見ると、これらも登場人物は豚として描かれている。全く勝手な私の想像だが、宮崎駿は兵器を操る人間を描くことに抵抗があったのではないだろうか。擬人化した豚を登場させてコミカルに描くことでそれを和らげているのではないだろうか。そういう考えが、一連の発言からうかがえるような気がする。さらに、同じく軍オタの私がなんとなくそれを理解できるような気がする。

この作品は映像化されるべきでは無かったんではなかろうか。宮崎駿が最初に映画化には反対していた、という事実のほうを重く受け止めるべきであると個人的には思う。