「およげたいやきくん」が悲しすぎる

最近、娘が「およげたいやきくん」に気に入ってるらしく、youtubeなどの動画を見せたりするのだが、私はこのうたが嫌いだ。なぜか。悲しすぎるのだ。

たい焼きは毎日毎日鉄板で焼かれて嫌になっている上に、お店のおじさんと喧嘩するところから話が始まる。これがまずひどいと思う。上司に恵まれず、さらに鉄板に焼かれるという労働監査局も真っ青の劣悪な労働環境で働いているというのがいたたまれない。

そういう境遇の下でたいやき君が逃げ出すのも無理は無い。言い換えるとこれは泣き寝入りに近い。本来であれば劣悪な労働環境で働かせる企業が悪いのは当然である。昨今も、サービス残業代を取り返すための訴訟なんてのは良く起こされているわけであるが、それでも企業側が圧倒的に資金力があるので、労働者にとっては分が悪い。労働基準法を守っている企業は実に2割しかないという日本において、たいやき君のような境遇にある労働者というのは多いだろう。このへんが世相をよく反映していて、まず悲しい。

逃げ出したたいやき君は初めて泳いだ海の底に感動する。お腹のアンコが重くてもそれでも楽しかった。それがまた泣ける。魚でありながら大海原を泳ぐことすら許されることは無かった。休暇も与えられず、職場は軟禁状態であったと言えるだろう。さらに腹にアンコを詰められるというのは、人権団体が虐待だと騒いでも不思議はない事案である。そういう境遇の下であっても、たいやき君はただ、海の底が美しかった。楽しかった。それだけの地獄を見てきたというあたりが、これもいたたまれない。ただ悲しい。

海の底で楽しく過ごすたいやき君。難破船を住処として、塩水を飲んでしのいだ。たまにはエビも食いたくなるけど我慢した。ここらへんも悲しい。職を失い、遺棄された船内を住処とし、塩水を飲んでしのぐというのも、生活の困窮するワーキングプア状態を彷彿とさせる。劣悪な労働環境から逃れた労働者が、大した保障も受けられない。生活保護制度は本来の意味をなしてはおらず、本当に必要な人々に行き渡るのではなく、生活保護制度の仕組みを熟知して悪用するような連中にお金がわたってしまう。正直者が報われず、悪がはびこる世の中を反映しておる。こんな不条理が許されるのだろうか。

そして最後に、たいやき君が口にした食いついた食べ物には釣り針が含まれていた。もがけばもがくほど深く体内に刺さる釣り針。さぞ苦しかろう。ようやく見つけた難破船の住処ですら、安全ではないのである。

やっぱり僕はたい焼きさ。少し背伸びして大海原を泳いでみたけど、所詮たい焼きだったのさ。僕を釣り上げたおじさんは、びっくりした後に僕を食べた。この結末も全く救いが無くて辛い。悲しい。結局勇気を出して踏み出した一歩、そして開けた新世界。その結末はといえば、やっぱりただのたい焼きとして人生を終えることであった。現状を変えたい。そうして立ち上がった若者が、出る杭が打たれるがごとく、結局は元のレールに収まり、結末を迎える。なんにもいいことは無い。

タイトルの「およげ」たいやき君。普通はたい焼きは泳がない。だけど、勇気を踏み出した一歩進んだたいやき君は大海原で泳ぎまわって欲しい。それは素晴らしいことなんだ。そういう願いが込められているのかもしれない。ただ、それは故人に対して残された人が、気持ちに整理をつけるため、彼にとっては幸せな人生だった。と、そう思ってつらい気持ちを紛らわせることに似ている。

果たしてたいやき君は大海原を泳ぎまわって幸せだったのだろうか?おじさんの口の中に入った時、どう思ったのだろうか?あな口惜しや、私は何のために生まれたのだ。と、無念の後に息絶えたのだろうか。そうであれば、こんなに悲しいことは無い。ほとんど奴隷のごとくこき使われ、やっと逃げ出しても結局は人間に食われて終わる。さぞ無念であっただろう。辛かったであろう。

それとも、いや、俺は他のたい焼きとは違って、大海原を泳ぐことが出来たのだ。短い人生だが、満足であった。良い人生であった。次はイルカに生まれ変わろうか。くじらに生まれ変わろうか。と、思って死んでいったのだろうか。それはそれで悲しい。世界はこんなに美しいのに、喜びに満ちているのに、それに出会うこと無く、志半ばで息絶え、そしてその息絶える瞬間であっても、良い人生であった。と納得させようとする。なんと不憫であろうか。彼はまだ世界を知らないのだ。知らないがゆえに、良い人生であったと思っているのだ。それが不憫でしょうがない。

と、まあ、このように、どのような視点で考えてもこの歌は救いがなく、悲しい歌である。私は幼少の時より、以上のような事を感じていて、一体、子供になんという歌を聞かせるのだろうか。人生には絶望しか無いのであろうか。そうであれば私は今後どのような心持ちで生きてゆけば良いのであろうか。という事を考えながら砂場で穴を掘っていた。私もいずれは死に行き、地中に埋められる運命にある。たいやき君が最後に食われて息絶えたように、生きとし生けるものはすべて死ぬのである。では死ぬまでのこの時間を一体どのように過ごせばよいのか。そういう疑問をずっと持ったまま人間は生きてゆくのであろう。

そういうことがあり、私は未だにたい焼きがあんまり好きではなく、食うときは頭から食うことにしている。それはしっぽから食うことでむやみな苦痛を与えたくないためである。牛や豚を屠殺するときも、ちょっとどういう方法でやるのか知らないけど、苦痛の少ない方法でやるのだろう。じゃあ生き物を殺さなきゃいいじゃん。ベジタリアンでいいじゃん。とも思うのだが、そもそも、人間は生き物を殺して生きてきたのだ。その歴史を否定することは出来ないし、我々は、普段何気なく肉を喰らい、うまいとかまずいとか感想を述べている。この人間の矛盾とはなんであろうか。

たいやき君から発する哲学的な問と答えのやりとりに終わりはなく、それは人間の本質的な性質とか、深淵の闇につづいているのかもしれない。私はずっとたいやき君に疑問を感じながら死にゆくのだろう。それを私に刻み込んだのはポンキッキだった。

私の娘も「およげたいやきくん」の歌詞を理解できる年になった時、父と同じ疑問を持ち、人生の矛盾に気がつくであろう。その時、未だに問に対する答えを有しない父はいったい何を伝えられるのだろうか。