ω無矛盾人生

hato

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せめて死ぬ前に、何か、何か俺の中で湧き上がるものを言葉にしたかった。でも、何も出なかった。何もなかった。

町田康著の「告白」の最後がこんな感じで締めくくられている。村人十人を斬り殺した熊太郎が最後に思ったこと。人生の中で、なにか、意味を見出したかった。でも、なんもなかった。だめだった。

Choose Life. Choose a job. Choose a career. Choose a family. Choose a fucking big television, choose washing machines, cars, compact disc players and electrical tin openers. Choose good health, low cholesterol, and dental insurance. Choose fixed interest mortgage repayments. Choose a starter home. Choose your friends. 映画Trainspottingの一節。

友達を選べ。仕事を選べ。キャリアを選べ。家族を選べ。CDプレーヤーを、洗濯機を、テレビを選べ。人生を選べ。人生とは選択の連続である。人生の岐路に立たされるたびに、その時点で得られる最も妥当と思われる道を選択する、まるで、糞つまらんアドベンチャーゲーム、はやりのモバイルゲームをイノベーティブなデベロッパーが開発した、みたいな。今時、一番儲かるのはモバイルゲームなんで、優秀なエンジニアが吸い取られているっていうか。それをしょうもないと思うかどうかは人の勝手であって、まあ、それも立派な経済活動だと思う。

そんな金儲けの道具の結節点にできたアドベンチャーゲームのような糞つまらん人生が我々の人生であるのだろうか。

例えば、そのアドベンチャーゲームを起動するわけじゃん。すると、なんかひたすらに現代的で、おっぱいがデカくて童顔でアニメ声のキャラクターが猫なで声で「せんぱーい」とか言い出して、週末のデートでどこに行くかを選択する、そこで、「映画館、水族館、ショッピング」とかいうひどく決定的で断定的なメッセージが表示され、これまでの、その、おっぱいがデカくて童顔でアニメ声の女の子が言っていた言動を記憶の中からほじくりだし、サーチ、分散処理。その時点で与えられた情報の中から、もっともおっぱい的に妥当な結論を導き出して、それをクリックすると、そのおっぱい童顔アニメの隠しパラメータたる好感度が上がってだな。

あと、よく分からんけど、どうせ課金があるんだろ。そのおっぱい童顔アニメをショッピングに連れ回したらちょっと高いお洋服がありまして、それを買おうとするとリアルマネーをつぎ込むかなんか、しらんけど、そんな感じなんだろ。そうやってニヤニヤ顔で金をつぎ込むオッサン、もしくは、クソヒキニートか、なんか、ヨレヨレのTシャツにパンツだけ履いて、バーチャルな人生をチョイスする。今までの情報を統合して形作った脳内の尤度関数から、種々のパラメータを指定して、ううん、とか、唸って。

それと現実の人生とで何が違うんだろうか?

映画「ビューティフルマインド」の冒頭でノーベル賞数学者のジョン・ナッシュが鳩の行動を表すオートマトンの状態遷移図を窓に記している。我々の行動原理がそういう単純な仕組みに還元できるではないだろうか、という気になってくる。脳みそが思考する仕組みというのは、化学的に発せられた電位差が伝播集約されて出力されるというだけの仕組みである。

実際、そういう脳の仕組みを数学的にモデル化して応用したソフトウェアシステムなんてのはそこら中にあり、たとえば最も身近なのはデジカメの顔認識だろう。あれは人間が人間の顔を認識するようなプログラムを書いたというよりは、コンピュータに人間の顔を教えた、という方が正しい。他にも、手書き文字認識なんかもそうだな。サポートベクターマシン、ニューラルネット、教師なし学習、みたいなキーワードで探してみるがよろしい。

つまり、人間が複雑だあ、複雑だあ、なんて思ってることはあんまり複雑ではないのかもしれない。人間とはなにか。生命とは何か。生命とは動的な平衡状態である。と言ったのは生物学者の福岡伸一氏であって、まあ、すごく素人でも分かりやすい説明の著書があって、私は感激した記憶がある。人間は物体ではなくて、水面を伝う波のようなものである。常に何かを取り入れるのと同時に、何かを排出している。

そうするとますます人間という物体、いや、現象が何なのかというのがよくわからなくなってきて、つまり、人間というのは動的な平衡状態であることに加え、更に内部に尤度関数を有し、困ったことにそれを持ってして外界を変化させようとする。おこがましい事この上ない。可愛い子がいたら彼女にしたいな、と思う。山を切り崩して整地する。多摩ニュータウンにする。それを高畑勲が嘆いて平成狸合戦ぽんぽことかを制作する。たかが人間とは波のような事象に過ぎないのに、世界を変え、世界に影響を与え、世界からのフィードバックを受け取って次の人生をチョイスしようとする。

事実、私が東京に出てきた頃、電車に乗っていると信じられないくらい私のタイプにマッチングした女の子が座っていて、マジで鼻血が出そうになった。無駄とわかっていても人生で初めてナンパしそうになった。そういう感じで可愛い子がいれば彼女にしたいと思う。山があれば多摩ニュータウンにしようと思う。でかいバイクがあれば欲しいと思う。おっぱい童顔アニメの選択肢を選ぶ。友達を選ぶ。洗濯機を選ぶ。住宅ローンを選ぶ。

風刺的に考えても、分子生物学的に考えても、計算機科学的に考えても、映画作品から考えても、俺の人生観から考えても、やっぱ人生ってのはそういう単純なもんで、なんの楽しみもない、ただの現象の連続で、ひどくつまらないもののような気がする。

なんでみんな楽しそうに生きてるんだろう。なんで俺は楽しくないんだろう。楽しいと思う仕組み自体、その、水面を伝う波の一部みたいなもんであって、楽しいと思うから楽しい、という意味以上の何かがあるわけじゃないし。じゃあなんで俺は楽しくないことを嘆いて楽しそうな奴が羨ましいのだろう?意味がわからない。

ゲーデルの不完全性定理みたいに、なんか、俺の頭の中で考えても導き出せない何か、オレンジを食ったら種が残ってた、みたいな、そんな感じで引っかかるものがある。俺の頭の中がω無矛盾であるかどうかと言われたらそら、なんか矛盾はあるだろう。でもそういうふうに考えたほうがしっくりくる。オレンジの種、もしくは、ケーキを食ったら、なんか、かみ切れないものがあって、ビニールだったわ。ポリなんちゃらのフィルムだったわ。みたいな。

俺が何を言いたいかわかるか?俺にもわからねえ。ビールを飲んでるからだ。

俺が死ぬときはボロボロになって死にたい。鼻血を垂らして、後悔たらたらで、惨めに死にたい。体中を傷まみれにして、河川敷に座って多摩川を渡る京王線を眺めながら、沈む夕焼けを見ながら、もしくは、海岸の波打ち際で、ボロボロになって、静かに沈んでいきたい。結局人間は死ぬときは一人なのであって、それまでやらかしてきた痕跡、爪痕を散々にまき散らしながら、みんなに迷惑をかけつつ死ぬしかない。たとえあなたが「葬式はやらんでください、骨は海に撒いてください」とか遺言で書き残したとしても、まあ、世間体を考えたら葬式をせざるを得ず、骨を海に巻こうとしたらきっと行政とか警察が文句言ってくるにちがいない。やめてください。骨を自然に撒き散らさないでください。って。

うるせえ、ガンジス川には死体が流れてるやんけ、最近は気を使って骨を流してるやんけ、なぜ骨を撒いたらあかんのか。たかがカルシウムやんけ。って、揉めに揉めて、そうやって、死んだあとも面倒事を残すのであって、そういうのも、波と似ているね。波は突然に消えない。しぶとく反射してバケツの中で複雑な軌跡を描く。誰もが死ぬときは潔く、さっぱりと死にたいと思うだろうが、そうは問屋が卸さない。っつうか、その問屋ですら、死ぬときは結局一人で死んで、その後、親族が集まって酒を飲んだりなんだりかんだり、故人はこうこうそういう人間でありました、みたいな、ことを抜かす阿呆を尻目に、ひたすら現代的で機械的なガスバーナー、東南アジアから運んできた天然ガスLNGとかに焼かれるのであって、そういうことを考えると、人間て、悲しいよなあ。

俺は河原で死に、野で死に、山で死に。田で死に、砂浜で死に。死んだ瞬間に肉体も魂も外宇宙まで吹っ飛んでしまいたい。俺はボイジャー1号だ。人間が生きた証を、友だちの記憶を、家族の記憶を、俺が生きた記憶を、なんか、ちっちゃいレコードみたいな金属板に記して、ひたすらに何もない空間を漂い続ける、遠くに太陽系を見ながら。懐かしい地球を眺めながら。死にゆく。