私が中学高校、大学あたりに居たころの話

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オッサンはなぜ「俺の若いときは・・・」と昔話をしたがるのか、今になって分かった気がする。

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それは、オッサンにとって、現実はさも厳しく、昔話は、かくも甘いからである。

現実を見てみよう。可愛かった娘は、服を一緒に洗濯すると怒り始める。中間管理職になって、上からも下からも文句を言われる。焼酎を持って麻雀をやっていたあの頃が懐かしいなあ・・・という気分に浸りたいのである。どうかオッサンを蔑まないで下さい。私は職場で蔑みまくっていますが、そういう私ももうすぐオッサンになります。

最近、夢を見なくなった。昔はあんなに夢を見ていたのに。

と、同時に、なぜか中学高校のころをすごく良く思い出します。それは、私が最近になってfacebookを使い始めたからで御座いましょう。facebookは中学高校のころのご友人が多く利用しております。

中学の時の話

私はなぜかバスケ部でした。バスケなど興味も御座いませんでした。その証拠に、当時、ジャンプでは「スラムダンク」が連載されており、私はスラムダンクの連載開始から最終回までずっとジャンプを勝っていましたが、スラムダンクは一回も読んだことがありません。ではなぜバスケ部に入ったかと問われますと、それは5つ上の兄が怖かったからです。兄はバスケ部でした。当然、お前も、バスケ部に入るんだろ?みたいな感じで言われたので、ハイ、入ります。としか言えませんでした。

バスケ部は苦痛でした。まず本人にやる気がないので、監督もあまり面倒を見てくれず、加えて私は元来、スキー、水泳、自転車以外のスポーツは全滅であって、球技、それもチームワークを要するものなど出来る訳がないからであります。

前にも書きましたが、私が中学二年生の頃、中学校の「特別棟」と呼ばれる、理科室や音楽室などの教室が並ぶ棟の1階から3階までを何往復もさせられたとき、あ、これ、死ぬな。と私は思いました。元来、足の遅い私ですので、「おー、またコイツへばってるで」などとよくバカにされました。私は悲しかった。でも向上心もないのでしょうがない。二階のコンクリの壁に寄りかかり、このまま溶けて融合してしまいたいと思ったのでした。もしそのときそうなっていれば、今こんなに苦労することも無かったことで御座いましょう。

でも、一度だけ、嬉しかったことがあります。

それは、ロードランと呼ばれる練習。桜並木の道を通って、片道2kmくらいを走って戻ってくる基礎体力構築のための練習でございました。

その日も皆について行けずへばる俺、見かねた監督が、こう言いました。「お前ここから学校に戻って良いよ。そんで、後から皆を追いかけさせるから。お前を追い越せなかった奴には背中ビンタするって脅すから、お前は誰にも抜かれないように走って帰れ」と。私は俄然やる気になった。信じられないくらい足が軽かった。私は今、誰よりも先頭を走っている。誰も俺に追いつけない。
そんで一番で学校に戻ったとき、ちょうど下校時間で同級生がたむろしている校庭に差し掛かったのでした。次の日、「あのwithpopが、ありえない、一番最初に帰ってきた」と何人かに言われ、私は嬉しくなった。

なんだかんだ言って、嫌々3年間、私はバスケ部に居た。最後、監督が、「お前はよくバスケ部に居たと思うよ。辞めずによく頑張ったよ」と言ってくれた。私は何一つバスケ部のために貢献できなかったが、何か辛いことがあるたび、「バスケ部のロードランよりはマシ」と思うことで大体のことを乗り切って来たと思う。そう言う点では、若いときの苦労は買ってでもしろ、というのは、あながち間違いでも無いな、と思う次第で御座います。

中学生の頃の話(2)

これも何故か最近思い出した話。中学二年生のころ、とある女の子が隣の席になったことがあって。

その女の子は、幼稚園が一緒で、小学校が別で、中学校でまた一緒になった子だった。私の名前はすごく一般的な名前で、対応するあだ名が一意に決まるような、そんな名前だった。なのでみんなそのあだ名で呼んでいたのだが、その女の子だけは私を呼び捨てにしていた。男だったら分かると思うが、こういうのってちょっとドキドキするよな。

その子は絵を描くのが好きだった。でも、ぶっちゃけ下手だと思った。俺の方が上手いと思った。が、それは言わなかった。

私もその頃から絵を描くのが好きで、それがきっかけで仲良くなったのだと思う。で、仲良くなったのだけど、その子には好きな人が居た。その好きな人は私の友達。悲しいような、嬉しいような。でも残念だった気持ちのほうが強いかも知れない。

今思えば、それがたぶん私の初恋だった気がする。気持ち悪いか?俺のルックスで。まあでも人生そんなもん・・・。な気がする。言っている意味が自分でもよく分からない。

その子は結局、私の友達に告白することもなく、私がお別れを言う間もなく、突然転校してしまった。なので、未だにサヨナラを言っていない。
又聞きした話だと、数年前までは宮城県のどこかに住んでいる、と聞いたが、それっきり。例の、Facebookにも登録していなかった。本名で検索したら中国人がいっぱいヒットした。意味不明。

もし私がその時に戻ったらどうするか?私の友達を好きだったとか関係無い、即刻告白すると思う。引っ越し後の連絡先を聞き、手紙か、なにか書くと思う。
キモイか?でも中学生ってそんなもんでしょう。手紙とか書くだろ?まだ、携帯も普及してなかったし、スマホが出現するなんて誰も思ってなかったしな。

その、「私の友達」も今度結婚する。私は第一子までもうけた。時の流れというのは、本当に、まったく、予想だにしない結末を導き出す。

高校生の頃の話

高校生の時、大音量の屁をこいた女がいた。俺が弁当を食っている時だった。

あまりに大音量だったので、全校放送のマイクのスイッチをON/OFFした音だと思った。そしたら、その女、こっちを振り向いて顔を真っ赤にして友達と笑って居たので、あ、コイツ、屁こいたな。と分かった。あまりにバカバカしいが、それが仲良くなるきっかけだった気がする。

その頃、私には特殊な超能力があった。それは、「クラスの席替えの時に自分が望んだ席になる」という能力である。私はその能力を駆使して、その女の子の隣になった。屁をこいたのはその一度きりであった。

私はその子の事が結構好きだった。サバサバしてて、飾らない感じで。喋っていてとても楽だった。楽しかった。
ちなみに、私には長い付き合いである某友人がいて、いつも私が誰かを好きになるのは、私、自分自身が、誰某何某を好きである、と気づく前に、その友人が先に私の気持ちを見抜くのであった。その感性には敬服する。そして、そのときもそうだった。

お前、あの子のことちょっと好きだろ。と言われた。まあ、否定しなかった。
で、その子は、また別の女子と揉めてたみたいだった。

女社会はすごく面倒くさい、と男から見ていて思う。実際、女ながらそう思うよ。と言っている人を何人も見てきた。

結局、その屁をこいた女の子は学校をやめることになった。

やめる直前、私の担当していた委員会の部屋にしょっちゅう遊びに来たりしていた、などをしていたことを鑑みるに、もしかしたら、遠回しに私に助けを求めていたのかもしれない。と、考えるのは勘違いも甚だしい、のだろうか。今となっては分からない。

止める直前、こんな話をしていたのが記憶に残っている。

「私の彼氏はSM乗ってっから」
「SM!?なんだよそれ」
「S-MXだよ。知らないの?」

S-MXとはかつてホンダが販売していた、ステップワゴンとbBの合いの子みたいなベンチシートの車である。その頃の私は、なんだか、車に乗ってるというだけで、自分には未来永劫追いつくことの出来ない点の上の人、みたいな感じがしていた。加えて、S-MXなんて見たことも聞いたことも無い車、恐ろしいことこの上無かった。私にとって車とは、実家のいすゞジェミニ・ディーゼルターボとスバル・サンバーだけだった。

いま思い返してみれば、なーにがSMXだ、あんなもん(ホンダ技術者には申し訳ないが)カーセックス専用車両だろう。ジェミニターボの方が早いっちゅうねん。ジェミニターボで散々煽りまくってやるわ、という感じなのだけど、当時の俺は知らない世界に対して極度に恐れおののく小心者であった。
彼氏が居る・・・。しかもS-MXとか、ガンダムみたいな名前の車に乗ってる・・・。もはや俺の出る幕はない・・・と悲しくなったのであった。

「高校辞めるよ」と言われ、「いや、やめんなよ」と説得したものの、S-MXに打ちのめされた私にもは抵抗力はなく、戦っても居ないのに予選敗退、みたいな。すこぶる惨めな気持ちが充満していた。

これも私の後悔の一つだ。いや、学校やめんなよ。S-MXの彼氏とかどうでもいいっしょ。って気軽に言えたのなら、どんなに楽だったろう。しかし、それとて、私の気持ちが楽、ということであって、本当にその子のためになったのかどうかは分からない。もし私が、今と同じ知能、すなわち、28歳の経験と頭脳を持っていたとしても、なんて言ったら良いかなんて分からない。

でも、人生そんなものなのかもしれない。私の言葉で、誰かの人生に干渉できると思っている、その慢心こそ、おこがましいというものでありましょう。

大学生の頃の話

大学生になった俺。飲んだくれていた。

一人暮らしでアパートを借りていたので、友達が女の子をつれてしょっちゅう遊びに来ていた。しょっちゅう私の部屋に女の子が入った。ギャルが。ギャルが。信じられない。

その日もそうだった。友達が、女の子を連れてきた。「合コンやろうぜ」って。その友達はすごく優しかった。やることは無茶苦茶だったけど、友達は大事にするやつだ。ちゃんと、うちに女の子を連れてくるときは、男女比を合わせてくれた。

その日来た女の子、もう名前も忘れてしまったけど、彼女のことを私はずっと忘れられない。

その子はものっすごい斜視だった。私がその子の親であれば、早期に矯正手術を受けさせたと思う。まともに目を合わせられない、どこを見てるのか分からない、そんな子だった。飲みまくった次の日、私は友達と喋っていた。「あの子、どこ見てるか分からんかったよな」って。

でも、その子は明るかった。とても明るかった。あんなに斜視なんだから、今まで辛いこともあったのだと思うけれども、そんなことは微塵も感じさせなかった。

いや、私が、斜視が可哀想で、辛い人生を歩んできたのだろう、と、思うそのこと自体が失礼なのかも知れないが、逆に言えばむしろ私に失礼と思わせるくらい、その子は明るかった。

それを今思い返してみると、やはり素晴らしいことだと思う。

ちなみに、私は色弱である。色があんまりよく区別つかない。たとえば、今は東京は桜の時期であるが、サクラの色が分からない。私は何度見てもあれは白に見える。ピンクには見えない。

同時に、私は絵を描くのが好きだが、色が分からないので時々変な色を塗ったりする。私の書く絵に、極端に彩度が小さかったり、白黒だったりする絵が多いのは、そういう自信のなさを反映しているのである。

今は無いと思いたいが、昔は人の肌をエメラルドグリーンに塗ったりした。友達に「なんで緑なの?ピッコロなの?」と言われて非常にショックを受けた記憶がある。同時に、この時期、「色弱の人は子供を作るべきではない。劣勢の遺伝子を子孫に残してはいけない。子供がほしくても作れない人もいっぱい居るのだから」という意見をネットで目にして、非常にショックを受けた頃でもある。

今となっては、社会的にも科学的にもバカバカしいと思う。(つまり、遺伝子の選別を行う行為そのものが、遺伝子の多様性を損ない、環境への適応性を悪くさせたり、遺伝病の多発へつながる)が、当時は絶望的な気分になっていた。

そんなときに、生き生きとした彼女の姿はとても励みになった。今となってはもうお礼を言うこともできないが、せめて、この場を借りて。ありがとうを言いたい。

大学生の頃の話(2)

私は大学3年生であったと思う。相変わらず飲んだくれていた。

その頃、日本酒がとても好きな友達が居て、「日本酒の会」なる、地元のオッサンが集まる会合に主席して、嘘か本当か分からないが、何百万もの値段が付く酒を飲んだりした。(ちなみに、メープルシロップみたいな味であんまり旨くなかった)

その、日本酒の会、で、何次会か忘れたが、スナックに行った。

スナックなんて、今も昔もまず間違い無く行かないジャンルである。スナックに対する私のイメージは、「ババア、もしくはギャルが接客するクソ高い場末の酒場」という感じである。もちろん、おごりでなかったらこんなとこ行かない・・・と思いきや、おごりじゃなかった。俺は学生なのに自腹でクソ高いスナックの飲み代を割り勘したのだった。

スナックに、ミカちゃんというギャルが居た。スナックにこんな若い子いるとは思わなかったよー、なんて、友達が、大学生のくせしてオッサン丸出しで口説いていた。また、その友達はクソ音痴にも関わらず頑張ってカラオケを歌っていた。シャララーラ、シャラララーラ、このまーま、何処か遠く、連れてって、くれないか。君は、君こそは、日曜日、よりの、支社。もとい、使者。

俺は酒を飲みまくりくたばっていた。その日は、ミカちゃんに多少絡んだのち、オッサンの一人のアトリエに行き、よく分からん、すこぶる難解な油絵を見せられ、「はー、すごいですね・・・」などという何の意味もない、表面的な会話をして家に帰った。

その、ミカちゃん、と、プライベートで飲むことになって、その場にいたAちゃん、と、プライベートで飲むことになって、その場にいたYちゃん、が、今の私の嫁さんでありんす。

Yちゃんとの初対面は最悪で、人んちに入るなり、風呂場を覗いて「カビてる!」などと文句を言ったり、俺の将来感に説教したり、勝手に布団を敷いて寝たり、やりたい放題であった。残された私は、Aちゃんの要望により、ゲイ画像をネットで検索した。今思うと、アレが「ホモォ・・・┌(┌ ^o^)┐」の走りであったと思う。未だに理解できない。

就職活動してたころの話

私は就職活動してたとき、修士なので23歳、にして初めて東京に来た。東京に来たとか、修学旅行で新幹線を乗り換えた時以来であった。

そこで、Yちゃんが東京にいた頃の友達と出会ったのだが、そのうちの一人が、「Yはガラスのハートだったからね~」などと言っていて、「どこがガラスのハートなんすか?すさまじい限りですよ」と言ったところ、「じゃあそれは秋田に帰って、あなたが変えたんだね。Yを。」と言っていた。これは未だに心当たりが無く、理解できない。

その日、終電を逃し、渋谷の駅前でタクシーを待っていた。夜12時を回っていた。Yちゃんはタクシーを待つ列の、前のオッサンをバッグで殴っていた。私は「すみません」と謝った。代わりに。とんでもねえ女だと思った。しかし、その3つ前の男が酔っぱらいながら手すりにぶら下がって頭からアスファルトに落下してゲロを吐いたりしていて、東京はすごく恐ろしいところなんだな。と思った記憶がある。

しかしながら、今はもう東京に慣れました。

オッサンがミニモニみたいな格好をして駅前を歩いてても日常です。大声で歌ってる通行人とすれ違うのも日常です。

こうして思い返してみると、本当に私はいろんな人と付き合ってきたのだな、と思います。
その一つ一つが糧となり、私を形作っています。

無意味な事など一つも無く、すべては学習しようと思っている心があるかどうか、にかかっていると思います。
まあ、今の職場は腹立たしすぎるとも同時に思いますが。

もう少し頑張って生きてみたいと思います。

ここまでで何文字書いたと思いますか?なんと6400文字、原稿用紙にして32枚です。こんなしょうもない文章を読んで頂き、ありがとうございました。